花のひらくとき

 離宮、と呼ばれるその館は「炎麗家のだから、今はマエズロスのもので良いんじゃない?」ということになるらしい。ティリオン王宮に限りなく近く、とはいえ独立した館である。
 エルロンドはマエズロスを訪ねてやって来たが、そうすると当然同居しているフィンゴンにも会うことになった。そして仕事終わりには、本来王宮にいるはずのフィナルフィンまでマエズロスと一緒に来た。仲良し幼ななじみが連れ立っているのはよくあることなので、誰も特に疑問を覚えない。
「やはりこの黒髪だな。よく映える」
「あなたに結ってもらうのは初めてです」
「……片手では、自分の髪にも難儀したからな」
 すい、すい、すい、と髪が少しずつ引っ張られる感覚。エルロンドは新鮮な気持ちで鏡の中のマエズロスを見つめる。フィナルフィンが上機嫌に口を出す。
「でもねー、エルロンド。マエズロスは人の髪結うのすっごい好きなの。私もしょっちゅう頭いじられる」
「仕事も捗るから良いだろ」
「良いけどさ」
「………なんでおれのはやってくれないんだよ」
 マエズロスは、フィンゴンの恨めしげな声を聞き流した。エルロンドもそろそろ慣れてきた。幼なじみには幼なじみの会話がある。その流れから言えばフィンゴンは実に微妙な立場にいて、聞き流していながら弾かれてはいない。
「マグロールは下手だったろう」
 真顔で言われると返答に困った。編み方を知らないこどもの頃にさぞや難しいのだろうと思っていたことが、案外簡素な結い方だったと気付いた日、エルロスと顔を見合わせて噂した。少し凝ったことをしようとすると、とたんに絡まって仕上がりが微妙になる。そういえば日常いつもの結い方も、時々何とも言えないことになっていた。見られないこともないが、下手。確かにその一言に尽きる。
「あの頃ほど片手で髪が結えて良かったと思ったことはないな」
「え、父上の真似のアレ? あんなん絶対私にはムリ…、アレそもそも器用じゃないと出来ないよ」
「君は別に両手塞がるほど仕事一途じゃないから良いだろ」
「良いけどさー」
「なんでおれのは」
「お前のはダメだ」
 紐を結び終えて、マエズロスはうん、とエルロンドの頭を撫でた。終わりの合図だ。そしてそのまま表情を変えずに言った。
「みとれる」
「……ん?」
 マエズロスが離れる。と同時にフィナルフィンが音もなく近づいた。
「あ、エルロンド、あっち行こうか。始まった」
「え」
 はい扉にご案内ー、とエルロンドの身体を外に向けながら、フィナルフィンは肩をすくめた。
「いちゃいちゃ」
 ちらっと振り返ると、寄り添ったふたりは花のように見えた。

「じーさまがお気遣いくださったんだろうな、それは…」
 話を聞いたギル=ガラドは言った。じーさま、と呼んでいる相手はフィナルフィンのはずだ。ギル=ガラドが「アマンの年長連中はみんな爺ぶりたいお年頃らしい」とぼやいていたのを覚えている。素直に爺呼びするのは、さすが父が四人もいると肝の据わり方が違うんだな、と思った。エルロンドも呼んでと言われたが、言われたからといって呼んでいいものかは、まだ考える時間がほしいところだ。
「……そのあとお茶をご一緒しました」
「うん――父上とマエズロス、ほんとに隙あらばいちゃいちゃするから。いや良いんだけど。平和で」
 頬杖ついてふにゃふにゃした声で言ったギル=ガラドの髪は、今日はすっかり全部まとめて編み上げられていた。エルロンドは覗き込んで「ハートができてる…」と呟いた。
「あ、孔雀のつもり、これは」
「尾羽根のところ?」
「最近なぜかうちの方に孔雀がいて……ティリオンから来たのかもしれないんだが種類が違う気もするし…」
 ギル=ガラドの住んでいる森はだいぶ奥地の方だ。エルロンドはティリオンからてくてく歩く孔雀の行列を思い浮かべてちょっと笑った。
 視線を戻すとギル=ガラドがかつて良く見た気がする眼差しで微笑んでいた。どきりとした。
 エルロンドは黙ったまま椅子を持って立ち上がり、ギル=ガラドの横に座り直した。
「編んでください」
「ん、」
 背中を向けて言うと、ギル=ガラドの戸惑った気配が伝わってくる。エルロンドは言い募る。
「孔雀でも良いし、他の何でも…」
「……お花にするぞ?」
「いいよ」
 言った瞬間、はるか昔に戻った気がした。振り返ったら、エルロスがギル=ガラドにくっついている気がした。鏡がなくて良かった。
 さらさらと髪が編まれていく間、エルロンドはただ前を見て黙っていた。
 ギル=ガラドの手は記憶と同じく優しくて、記憶よりも温かかった。
 こういう日々が続くと思っていた。それからこういう日々を続けなくてはと思った。エルロンドは覚えているのだ…。
「ぼくたち、急に来て、じゃまじゃなかった?」
 遠い昔から声が響く。ギル=ガラドが微笑む。
「そなたたちはいつも私の福音だ」
 頭を撫でられて、エルロンドは振り返った。こどもの頃のように、その時もあまりしなかったようにギル=ガラドに抱きついた。
 そうしてふたりはただ黙って、遠い昔にひたっていた。きっと花のように見えたに違いない。