はがねのハニー⑤

「そと、すごい」
 声を上げたのは幼いフェアノールだ。マハタンは顔を上げて外を見やり――絶句した。
 しまった、と脳裏によぎる間に、とてて、と頭に引っ張られるように幼子は扉にぶつかりそうになって辿り着いた。
「みどり…」
 幼い姿に似つかわしくない力で開け放った扉の向こうは、花畑……の筈だった。つい先ほどまでは。
 今は渦巻く緑に覆われ、茂り揺れる葉の濃い香り、家の丈すら覆ったのではないかと思うとりどりの。みどり。
「あー。あー、あー…」
 マハタンは頭を抱えた。やってしまった。
 フェアノールはぽかんと口を開けて、父親譲りの冴えた灰色の瞳も同じように見開いていた。その目線がじりじりと上にあがり、あがり、あがって、くるんとひっくり返った。
「わっ」
「あー!」
 慌てて駆け寄り、きょとんと瞬きをしている幼子を助け起こす、と、遠慮のない力で裾を引っ張られる。
「まはたん!」
「はい!」
 幼子のあまりの真剣さに改まった声が出た。
「みちがない!」
 あ、いや、それは。少しばかりマハタンがもごもごしていると、フェアノールはちっちゃな眉間にきゅうっと皺を寄せて、しかめっ面で言った。
「ちちうえが、かえってこれない!」
 マハタンは息を呑み込んだ。そう言ってぎゅっと引き結んだ唇も、その上の瞳もふるふる震えて、迂闊なことを言ったらぼろぼろと決壊してしまいそうだったからだ。
 ちらりと扉を見やる。蔓延った緑は今にも家の中まで手を伸ばして来そうで、確かに外には道があるやらないやら、一面のみどりで分かりはしない。幼子の目線ではいよいよみどりに押しつぶされそうだ。
 マハタンは、とん、とん、とちいさな背中を抱き込んで叩く。強張った身体は熱い。肩越し、扉を睨んでいる頭もまた熱い。大丈夫、大丈夫、フェアナーロ。
 幼子を抱きあげると、肩口に齧りつくようにしがみついた。マハタンは扉をそっと閉めた。
「それじゃ、フェアナーロ。みどりを戻してお知恵さんを呼ぼう」
 フェアノールはしがみついたまま頭をぐいぐい振った。マハタンは背を叩くのを止めない。抱き上げたまま、ちいさな竈に無造作に薪を組むと、しゃん!はっとする音を鳴らした。
 幼子がびくっと震えて頭を上げた。その下で、見る間に燃え上がった火は薪を舐め、ほどなくしてぱちぱちと小さな音を上げ始める。
「ひをたくの?」
「そう。ちょっと木に寄りすぎたから」
 木に?首を傾げているフェアノールをよそに、マハタンは何かきらきらする粉を火に撒き、またしゃん!音が鳴る。
 それを見て、マハタンは苔の色した目を細めると、くるりと扉に向き直る。
「さあフェアナーロ、外はどうかな?もうそこまで来ていたりして――」
 扉に手をかけるのをフェアノールはどきどきと見つめた。開かれたそこには先ほどよりもっと絡むような蔦と葉が押し寄せて、フェアノールはひっと息を呑む。けれど次の瞬間、その蔦に白い指がかかる。
 こうして来るのが全く正しいと言わんばかりの自然さで、その手は扉から蔦を引き剥がした。ふわりと蔦を投げて、ふ、とほのかな笑みを洩らしたそのひとは、家の中の2人を見ると今度こそ明るい笑いを上げた。

 そして勿論フィンウェに飛びついたフェアノールだった。のだが。
 朧気にあるそんな記憶は実際この家だったか、とフェアノールは嘆息する。この家、都からは離れた、ヴァリノールの平原にある花畑、そこに建つ――ミーリエルの家だ。
「あああ…」
 またやってしまった、とそこで頭を抱えているのは赤毛の匠、あの時と同じ、マハタンだ。
「どうもお弟子さんといると気が抜けていけない…」
「私のせいか?」
 ぼやくのに、少し尖った声で返事をすると、マハタンは眉を下げて、いやいや、と苦い声で続けた。
「俺のせいさ。今も、前も」
 開け放った扉の先、幼子でなくてもめまうようなみどりが押し寄せている。
「なるほど凄まじい」
 しかし今では分かるのだが、確かにこれは花畑の名残を留めていて、むしろ花が大きくなっただけ、と言えば言えるのではないかと――そう思った。
「……お師さん」
 ん、と返事をするマハタンは、ちょうどあの時のように火を熾そうとしていて。
「前からやってみたかったことを、やろうと思う」
「うん?」
「このまま、抜ける」
 扉を示すと、絡まる蔦とその先を見て、マハタンは同じくみどりの瞳をぱちんと瞬いた。
「あ、あー…」
 確かに、幼子ではないのだから抜けられない道ではないのだ。すっかりおとなになった幼子は、あの時と同じ強情な瞳で蔦を睨んでいて、しかしそこに楽しみがよぎるのもまた事実で。
「――ふむ」
 マハタンは笑った。
「お弟子さん。いってらっしゃい。お知恵さんによろしく」
 フェアノールは虚を突かれたように半瞬止まったが、ほんのすこしだけ口を尖らせて、やたらと何度か頷いた。
「……勿論」

 そうして、蔦をはねのけはねのけ出て行ったフェアノールを見送って、マハタンは火を熾すのをやめた。
 以前から薄々思っていたが、たぶん定期的に木にふれる必要があるのだろう。火と金気で覆われる暮らしをしていて、アウレの傍では何事も起きなくても、すこし離れて気を抜くと、こうなのだから。
 マハタンは蔦の先に揺れる花の香りを吸ってみる。あの時蔦をかきわけかきわけ迎えに来た、フィンウェの髪の香りがした。