しあわせのたまご

   1

 ルーエルというエルフにお前の仕事は何かと訊けば厨番ですと答えるだろう。料理人だ。その昔、フィンウェに願われて王宮に住み込むことになった彼は、その時の約束を律儀に守り、氷原を超えてこんなところにいる。
 フィンウェとの約束がどんなものであったかは最早余人の知るところではないが、ノルドール王家の記憶する味の根源というのは彼の料理である。家庭の味、ということになるだろうか。
 その彼、ルーエルは好奇心が高じて別のものも追及していた――薬草と医術である。
 したがって、今ここヒムリングでは彼の仕事はこういうことになる。料理人であり、薬師だ。

 ルーエルがヒムリングの主、マエズロスの部屋を訪うのは珍しいことではない。ティリオンにいた頃も、彼はよく公子さまごはんいかがなさいますか、と柔らかに訊いてくれたものだ。ヒムリングでも日に一度顔を出し、マエズロスに休憩を勧めながら食事の要望を聞いて去っていく。だいたいが午後だ。籠り仕事の時には正しい息抜きをさせてくれる。
 しかし今日は、ルーエルは午より前にマエズロスの部屋に現れた。マエズロスは内心ぎくりとした。ルーエルがやってくる用件に心当たりがあったからだ。
 マエズロスはもともとそんなに食べる方ではない。兄弟中では下から数えた方が早い食の細さである(それでも作業中のクルフィンよりは食べるのだが)。ルーエルはそれこそ生まれた時からの付き合いなので、王家の食のすべてを把握している。手を変え品を変え、天気を読み薬を知ってからはそれも駆使して、彼の思うすこやかな暮らしのための食事を出し続けて来た。
 最近、食がますます細くなった。マエズロスにも自覚がある、それが、ついにルーエルの堪忍できないところまで来たのだろう。吐き気がすると早く言えば良かったのかもしれないが、妙に暑い気がするこの頃のことだから、気候的なものだろうと少し軽んじていたのは否めない。
 説教というよりもしょんぼりと訴える、というのが相応しい彼の諫言である。謹んで伺わねばなるまい。
 果たしてやって来たルーエルはしょんぼりと眉を下げたまま、マエズロスの食欲の無さについて問いただし、そのほかこまごました質問と、……吐き気と熱の有無を確認して、目線をうろうろと彷徨わせた。
 体調は確かに良くないが、どうしたのだ。訊いたマエズロスの前でルーエルは難しい顔をすると、ちょっと良いですか、とマエズロスを寝室へ連行した。
「臥せっている場合では――」
「違います。ちょっとここに座ってください」
 ルーエルが促したのは寝台で、マエズロスがさしたる抵抗もせずに腰かけると、ルーエルはううんと唸ってふかふかしたものをマエズロスの周囲に寄せ集めた。
「おい?」
「……落ち着いて、聞いてください、マエズロスさま」
 ルーエルの青ざめた顔にマエズロスは不審の眼差しを隠せない。眉間にきゅっと皺を寄せると、ますます困ったように、ルーエルは言った。
「妊娠していらっしゃいます」

 ばふっとふかふかしたものに倒れこみながら、マエズロスは眩暈が収まらない。
 なんだ? 今何を言われたんだ、私は。視界が回る気がするが、それ以上に思考が同じところを回っている。
「あー!公子さま、気を、お気を確かにー!」
 ルーエルは予想していただろうに慌てふためいて叫んでいるが、それどころではない。妊娠している? 誰が。私が。……私が?
「ルーエル…」
「はい!」
「私は耳がおかしくなったらしい。もう一度言ってくれ」
「妊娠していらっしゃいます」
「にんしん…」
「身ごもっていらっしゃいます」
「みごもる…」
「あの、なかなか受け入れ難いのは分かるんですが…」
 ごにょごにょと言い出したルーエルの前で、マエズロスは物凄い勢いで起き上がった。
「私は男だぞ!!」
 叫び、う、眩暈が、と頭を押さえたところに、あのー、それが…、とルーエルは言いにくそうに言った。
「マエズロスさま、両性なんだと思います」
 マエズロスはもう一度ふかふかしたものと友達になった。
 なんだ? 今何を言われたんだ、私は。妊娠だけじゃなくて、なんだ。両性?
「ル、ルーエル」
「はい!」
「私は男だ…!」
「いえその、男性体の両性でして」
「………」
 はくはくと声にならない声で悶えるマエズロスに、ルーエルはいっそあっけらかんと続けた。
「アマン生まれにはもう本当に滅多にいないんですが、湖生まれにはちょこっといまして。両性の方。あ、男性体も女性体もですよ。でも発覚しなかっただけで、分かってるよりもっといたかも」
「は、発覚」
「ええと、その。身体の性別と違うことしないと発覚しないので…」
「発覚」
「あ、良いことなんですよ。睦み合いで、本当に心底愛する方とので分かるものなので」
 マエズロスは頬に血をのぼらせた。そういう睦み合いに心当たりがあったからだ。
「その、もし――その、私がそうだとして」
「両性?」
「そうだ、それだとして―――妊娠しているとは限らないではないか…」
 力なく言うと、ルーエルは真顔で答えた。
「ええとそこは少なくとも王家だけで十数回は妊娠中の方のお世話したわたしなめんなとしか言い様がないのですが」
「う」
 とんでもない正論にマエズロスは唸った。ルーエルは王家の食のすべてを把握している。そしてルーエルが王宮に住み始めたのは、フィンウェとミーリエルが結婚して間もない頃、つまりマエズロスの父フェアノールすら生まれていない昔のことだ。そこからフィンウェの子孫が何人いるのか、ごく簡単な計算だった。
「あと、」
「まだなにかあるのか…」
 やはり言いにくそうにルーエルは、
「両性だと発覚した時の睦み合いは必ず身ごもります」
 とどめを刺した。
「………ルーエル」
「はい!」
「きもちわるい………」
 えっちょっと待ってくださいちゃんと息をして!すぐ戻りますからね!と叫んでルーエルが出て行く。
「…………」
 マエズロスはむくりと起き上がって手鏡を探した。

 頭が沸騰しているような気がする。本当は、きっと身体のことも、気づいていたのだ。見ないふりをしていただけで。
 手鏡を放り出して、マエズロスは三度ふかふかしたものと仲良くなった。
 両性。妊娠。――あいつの子。
 ふれてみても腹は常と変らず平らかなままで、まだ、そうまだ信じるとは言い切れないけれども、それでも。
 マエズロスが枕に顔を埋めていたので、戻って来たルーエルは何を問うでもなく、こまごまとしたものを準備してそっと姿を消した。
 だから、考えるより何より先に溢れてきた思いは、誰にも見られていない。
 マエズロスはその日泣いた。落ちていくような喜びに溺れて、泣いた。

   2

 手紙が来る。
 フィンゴンはそれを待っている。待ちわびている。霧の湖の畔から、霧を抜けて遠くの寒き山の上を見つめている。
 マエズロスから手紙が来る。手紙だけが来ることはない。ヒムリングから来る様々な物資や書類の山の中にひっそりと、手紙が紛れている。フィンゴンは受け取るとすぐに駆けだして部屋に篭ってしまいたいのをなんとかこらえて胸に仕舞う。そして一日を終えてひとりになって、ようやくその紙を開く。文を読み、文字の流れやインクの掠れを眺め、書かれていない何事かが見てとれはしないかと目を凝らす。じたばたと転げまわって、押し殺した唸りをあげて、すぐに駆けだして寒き山の方へいってしまいたいのを押しとどめる。
 フィンゴンから手紙を出すこともある。いや、手紙なんてうまく文章を連ねたものではない。マエズロスの手紙に対する返事でもない限り、フィンゴンの手紙は数行で、または古式ゆかしき謳ただひとつだ。
 手紙が来る。その筈だった。
 ヒムリングからの使いに全く見慣れぬ、けれどフィンゴンにはよくよく見知った男がひとり紛れていた。
 彼はむっつりとフィンゴンに礼をすると、ごく小さな紙切れをそっと手に押し付けた。
 訝しんで開き、中の文字に目を走らせて、フィンゴンは瞠目した。

 ヒムリングの主の部屋まで案内するのが件の手紙を届けた男なのはいつものことだ。彼はフィンゴンの恐るべき速さにもめげずに付いて来て、砦が見えた時に少しだけ唇をゆるめた。彼のマエズロスに対する忠誠を、フィンゴンはよく理解している。
 午も間近い砦には随分美味そうな香りが立ち込めていて、いつも厳しい砦がどことなく和らいだ雰囲気なのはそのせいだろうか。案内人にニイと笑って頷くと、フィンゴンは迷わず主の部屋へと滑り込む。
 執務室に愛しい姿はなく、ただ静まり返った空間がフィンゴンを出迎えた。
「マエズロス?」
 軽く呼んでも応えはなく、フィンゴンは眉をひそめて奥へ向かう。
 あんな手紙を寄越しておいて、これは一体どういうことなのだろう。次の間にも姿はない。となると後は寝室である。
 ととん、と軽く扉の端を鳴らして、入るぞ、と声を掛けた。やはり何も返って来ないが、わずかに衣擦れの音が聞こえた。フィンゴンは扉を大きく開け放ち、
「―――ッ」
 いきなり飛びついて来た――としか表現できない――恋人を決死の勢いで抱きとめた。
 すん、と鼻を鳴らす音が耳元で聞こえる。フィンゴンの肩口に顔を埋めているのは間違いなく見慣れた鮮やかな紅玉色の髪で、しかし常の彼らしからぬ振る舞いが、フィンゴンを混乱させる。
 マエズロスは驚くべきことにふんふんとフィンゴンの匂いを嗅ぐと、深く深く息をつき、肩口にすり寄った。猫のような仕草だった。
「……マエズロス?」
 首に絡みつくように抱き付いている両腕が少しゆるんだのを機に、フィンゴンは身を引き、恋人の顔を覗き込む。
「えっ、どうし……っ」
 やつれた、と言うのに相応しい顔をしていた。しかし同時に、落ち窪んだ眼窩で茫洋と揺らぐ薄い鋼色があまりに艶めかしく、フィンゴンはまた言葉を失った。マエズロスは瞼を開けているのが億劫そうに眼を細めると、ぞっとするほど掠れた声で囁いた。
「フィンゴン……」
 こちらへ、と引かれたのは寝台で、フィンゴンは慌てて後ろ手に扉を閉めた。お誘いは嬉しいが、マエズロスの様子はいかにもおかしいし、実のところ混乱したままだった。
 今気づいたがマエズロスの左手がひどく熱い。療養中の高熱の時も凍えるようだったのに、と思い、やはり何か調子がおかしいのだと確信する。
 寝台に押し倒された、というよりは一緒に寝転がりたいだけのようだった。旅装も解いていないとフィンゴンは気づいたが、マエズロスは頓着せず全身ですり寄ってきた。今度は胸元に頭を乗せて、鼓動の音を聞いているのか二度三度緩慢に瞬きをし、目を閉じた。
 そうやって睫毛の影が落ちるとなおさら面やつれが目立つ。左手の熱さに比べて頬のあたりは血の気が引いて白く、薔薇のようでなく百合のように青ざめている。唇も色がなく、乾いてかすかに皹が入り、痛々しい。
 前に訪ったのは本当にごく最近だ。数か月も経たない。なのにこれはどうしたことだろう。そこでフィンゴンは、マエズロスがすっかり寝入っていることに気が付いた。
「あれ、マエズロス?」
 呼びかけても返ってくるのはごくごくかすかな規則正しい呼吸の音ばかりである。
「おーい、マエズロスさんー…」
 しがみつかれた左腕は動かせず、フィンゴンは右手を伸ばしてそっと肩口を叩いてみたが、マエズロスは身じろぎもしない。
 この体勢だから分かったが、身体そのものと腕はとても熱い。常のマエズロスの少しひんやりとした体温からすれば、煮えるような熱さだ。対して頭と足は冷えている。特に頭の冷たさが、このまま絶え入るのではないかと不安を煽る。
 無理にでも起こした方が良いのだろうか。けれど浮いた隈を見ると眠りを邪魔してはいけないような気がする。
 フィンゴンは、眠る色っぽい恋人を見つめて考えた。というよりも色々我慢した。
 考えてみれば部屋に入ってからのマエズロスの行動があまりに異常だが艶めかしく、思い返すととても元気になってしまいそうだった。
 匂いを嗅ぐ獣めいた仕草とか。ついた息の甘さとか。すり寄った時に聞こえた喉の鳴る音は、あれは自分が唾を飲んだ音だったろうか。それとも、
「フィンゴンさま」
「ぅわああッ」
 声を突然かけられ、フィンゴンは心臓が飛び出る思いをした。幸い心臓は出なかったし胸元でマエズロスは安らかに眠っていた。
 そのごく安らかに眠るマエズロスを見つめて、侵入者は安堵の溜息をついた。
「眠ってらっしゃる。良かった…」
「この状況何も良くないだろ…」
 フィンゴンは力なく返した。ルーエルは、慈愛に満ち溢れた目でマエズロスをしばし見つめると、踵を返した。
「お目覚めになったら呼んでくださいね。では」
「ちょっと待てルーエル!」
「はい」
「おれも一緒に寝てろって?」
「こんなにまともに寝付かれたの一週間ぶりなので、なかなかお目覚めにならないと思います」
「なんでそんな!?」
「はあ。いろいろ…ありまして。私の口からはちょっと」
 ルーエルはごくごく真面目に言うと、ではおやすみなさい、と部屋を出ていった。
 フィンゴンは暫くぐるぐると考えてはみたが、あまりに情報が足りないという結論に達し、改めて恋人を引き寄せると、息を合わせて目を閉じた。

 目が覚めると日はずいぶんと傾いていて、とろけそうな赤みを帯びた金色の光が窓から差し込んでいた。
 フィンゴンはそっとマエズロスの顔を窺う。
 金に透ける睫毛を一本二本と数えていたところで、ふるりと震えて目が開いた。彷徨う視線がフィンゴンを見る。フィンゴンは笑う。マエズロスはフィンゴンの腕の上からころりと転げた。
「フィンゴン…?」
「ああ」
 ふわふわとした声で呼ぶので答える。マエズロスは隣に横たわって顔をこちらに向けている。
「夢じゃなかった…」
「夢って。あんたが呼んだんだろ」
 あんな手紙を貰ってじっとしていられるもんか。言っても、やはりマエズロスは輪郭の定まらない目線でフィンゴンを見つめるばかりだった。
 ちょっとルーエルを呼んでくる、と寝台を立つと、後方にぐいっと引っ張られた。マントを。
 ぐえ、と間抜けな声を上げて振り返ると、マエズロスがなんだか迷子のような顔をしてマントの端を握りしめていたので、フィンゴンは笑った。
 手早くマントを外して、ぐるぐる丸めてマエズロスに渡す。ぼんやりとした恋人の唇に掠めるように口づけて、部屋を出た。

 今度はマントに埋もれるように丸まっていたマエズロスをルーエルは容赦なく叩き起こした。熱を見て、幾つか質問をして、じゃあごはんですね、と実に重々しく言った。
 その頃にはマエズロスも意識がはっきりしたようで、金に近い灰色の目が焦点を結んだ。
「なあ、本当にどうしたんだ」
 フィンゴンが問うと、マエズロスはふっと微笑んで、腰掛けた寝台の隣を軽く叩いた。フィンゴンがいそいそと座ると、マエズロスはもたれかかってきて溜息をついた。フィンゴンはもう何に驚いたら良いのかわからなくなってきた。
「落ち着く」
「そ、そうか」
「………話さなくてはならないことがたくさん、あるのだが」
「う、ん、そうだな…っ?」
 フィンゴンは息を飲んだ。ぐりぐり頭を押し付けていると思ったら、膝の上に落っこちてきたからだ。
「食べた後でいいか。食べられそうなんだ……」
 膝の上から蕩けたような目で見上げられて、フィンゴンは半ば硬直しながら頷いた。

 もはや奇行と言うよりも痴態と言うべきではないのか、そんなことが頭を過ぎるが、食事はなんとか無事に済んだ。いつもよりとびきり変わった料理が出たし、マエズロスの食べる量もいつもよりもっとささやかに思えたのだが、ルーエルは「ほとんど完食」にとても喜んでいた。
 正直、味はあんまり覚えていない。
 食事が済んだらまたマエズロスはフィンゴンにすり寄って来たので、そろそろ開き直ったフィンゴンは恋人の赤毛を撫でて楽しむことにした。こんな機会はめったにないと言えばそうだ。いつまでも謎のまま放っておく訳もなし、手紙の内容は事実だったと言えそうだし。
 求め合うのも楽しいが、こうやってぴったりくっついていられるのも嬉しい。戸惑いを抜ければ、いつもどこか張りつめていたマエズロスが甘えて来ているのだ、これ以上ないほどに甘やかすのが正しいだろうと思われた。
 まあその、執拗に匂いを嗅がれるのは少し、かなり、気恥ずかしくはあったが。
「そんなに良い匂いでもするか?」
「フィンゴンのにおいがする……」
「そりゃあそうだろうけど」
 結局次の間の長椅子に座って、マエズロスはほとんどフィンゴンの上に乗っている。しなだれかかると言うのがちょうど良いだろうか。食事をしている間に日はすっかり落ちたので、やや離れた位置の燭台の灯だけがちらちらと明滅している。
 抱きしめた身体はひどく熱くて、そういえば熱があると言っていたなと思い出す。
「寝てなくていいのか?」
「一緒にいる方がいい」
「そ、うか」
 恋人がこんなに素直だったことがあるだろうか?フィンゴンは何だかよく分からないがこの状況に感謝した。
 そのまま特に話すわけでもなくフィンゴンはマエズロスの髪をもてあそび、マエズロスは時々深い息をつくばかりでくっついてじっとしていた。
 灯火の向こうにふと、針のように細い月光が忍び入る。マエズロスが何かを聞いたように頭をもたげる。その瞬間、灯火がかき消える。
「―――フィンゴン」
「うん?」
 青白い月光の中で、恋人が微笑む。
「私にこどもがいたらどうする?」

 細い月光と部屋を占める影の色が、マエズロスの顔を白く浮かび上がらせている。
 フィンゴンはそっとその頬を両手で包む。恋人はすこし目を細める。その機嫌の良い猫のような表情。……沈んだ諦観のいろ。
「っ痛ッ」
 マエズロスが呻いた。フィンゴンは額と額を合わせたまま、剣呑な声を出した。
「あんたまた……、ひとりで迷子になってたな」
 間近で見た瞳が震えた。何を言おうとしたのか聞かずにフィンゴンは唇に食らいつく。荒れた唇の棘。きっと心も同じくらいささくれている。
「あんたの子をおれがどうするかって? 物凄く可愛がる。当たり前だろ?」
 何を不安がってるんだ、問う前にマエズロスは笑い出した。声を上げて。
「こどもが出来た。ここに」
 マエズロスはフィンゴンの手を取ると、自らの腹に触らせた。
「身ごもったのは私だ。――お前の子だ」
 あっけにとられてフィンゴンが口を開けると、マエズロスはひび割れた声で言った。
「笑えよ! おかしいだろう?」
 フィンゴンがようよう瞬くと、マエズロスはまた笑う。その引き攣れた声。マエズロス、フィンゴンは呼びかける。マエズロス、マエズロス。悲鳴のような笑い声を遮って、震える身体を抱きしめる。
「マエズロス、――ありがとう」
 笑い声が途切れて落ちる。フィンゴンは腕に力を籠める。
「ありがとう、ほんとに」
 熱い身体を抱きしめて、髪を撫でる。おずおずとマエズロスの左手が背中に回る。
「どうしてくれる、嬉しくて、死にそうだ、ああ、聞いたこともないぞ嬉し死になんて…」
 マエズロスは泣き出した。涙が降って来る。フィンゴンは笑った。笑って、終いには涙が出てきた。だからふたりで、抱きしめあって、なんだかずいぶんと長いこと泣いていた。

   3

「マグロールが来る」
 数日して、マエズロスがそう言った。フィンゴンは、うん、と頷いた。
「いつ来るんだ」
「今日」
 フィンゴンはんぐ、と妙な息を飲みこんだ。
「い、きなり、だな…」
「お前が来る少し前に先触れが来たから、そういきなりでもない」
 そっか、とフィンゴンは軽く頷き、はっとした。恐る恐るマエズロスの腹を示す。
「……まさか、言ってない」
「言っているわけがないだろう。……お前より前に」
「あ、ありがと…」
 マエズロスがほんのり頬染めて言うものだから、フィンゴンもちょっと俯いて照れた。
「お前が近くにいないとどう見ても体調が悪そうに見えるだろうから――どう誤魔化そうか」
「はっ?」
 聞けば、つわりの症状を緩和するためにあの奇行だったと言う。
 フィンゴンが来たばかりの頃と比べると劇的に常通りに近い顔でマエズロスがかすかに笑う。けれど元気と言い切るには薄ら刷毛でひとはきしたような倦怠感を纏っていて、常とは違うことは近しい者なら見ればわかるだろう。
「あんた、言わないつもりなのか?」
 フィンゴンはマエズロスの腹を見て、顔を見た。マエズロスはごく落ち着いた声音で言った。
「言う必要がない」
 フィンゴンはせわしなく何度か瞬いた。
「言わない理由がない」
「そうか?」
「そうさ」
 しっかり目を見据えて言うと、薄い鋼の蕩けた輝きを奥に沈めた金色の瞳を細めて、マエズロスは眉をひそめた。
「でも、言って?――どうなるというものでも…」
「じゃ、言わなくて?――どうなる? 時が来て、あんたが子を産んで」
「産んで」
「来るだろ、マグロールが」
「来るな」
「で、あんたが赤子を抱いている」
「うん、…?」
 そこで妙な思案気な顔になったので、フィンゴンも眉根を寄せた。
「なんだなんだ。抱いてくれないのか? 産んでくれるだろ?」
「産む。し、抱く。が」
「が?」
「マグロールが来るとして、その頃に私の手元にこどもはいるんだろうか」
 フィンゴンは一度天を仰いだ。マエズロスが首を傾げた。
「……わかった。よくわかった。味方が必要だ。あんたにも、おれにも」
 そう言って、ごくやわらかく唇を吸った。マエズロスはきょとんとしていた。

 マグロールはマエズロスの絶対の味方だ。それをフィンゴンは良く分かっている。
 だが納得もせずに味方するわけでもない。それもフィンゴンは良く分かっている。
 もうちょっと寝た方が良いんじゃないか、と拙く子守唄を歌って、マエズロスがぼんやりとろけた顔で眠ったので、フィンゴンはそそくさと部屋を出てきた。
 するとやはりマグロールはとっくにヒムリングに到着していて――フィンゴンを見て、分かりやすく片眉を上げた。
「で、兄上は?」
 フィンゴンは簡潔に答えた。
「寝てる」
 ふぅん、とどこかで聞いたような声をマグロールは出した。フィンゴンが彼の真向いに腰かけると、マグロールは足を組み替えて、わざと高慢な物言いで尋ねた。
「それで従弟殿は、私に何をお望みでしょうね」
 フィンゴンは知らず唾を飲みこんだ。枯野を思わせる灰色の瞳がごまかしを許さない強さに満ちて見据えていた。
「……あんたは敵に回すと恐ろしいが、味方にすればこの上なく頼りになる」
 マグロールは驚いたように瞬間、笑んだ。
「あなたにそう褒められるとはね。兄上絡みで…、何が、起きた?」
 息を吸った。真剣な眼差しに相応しく、落ち着いた声を出そうと努力した。
「マエズロスが身ごもった」
 マグロールはほんの少し、目を開いた。フィンゴンは続けた。
「それで、おれはマエズロスに求婚する」
 マグロールは打たれたようにきゅっと目を瞑った。唇が開き、また閉じて、ふっと息を吐き、下唇を噛んだ。
 開けた目には諦観と衝動の入り混じったぎらつきが浮かんでいた。フィンゴンもまたその目を見つめ返した。
「――従兄弟同士ってことをどうやって説得しますか」
「父上と伯父上が異母なことに感謝するとでも言っておくさ」
「納得するかな」
「無理だろうな」
「まあ――、あなたには押し切られるかな…」
 マグロールが深い息を付いて顔を伏せたので、フィンゴンはどぎまぎした。その、なんか、ごめん、としどろもどろに言っていると、ひょいと顔を上げたマグロールは片目を眇めて笑った。
「何、謝ってる」
「……突然、こんなことになったから…」
「兄上から直接言われるまで信じてなんかいませんよ」
 伶人の完璧な微笑をかたち作ると、マグロールはさあ案内して下さい、とフィンゴンを促した。
「寝てるかも…」
「起きるよ」
「なんで分かる?」
「なんでも」
 軽く言うと、マグロールは立ち上がった。フィンゴンは一瞬ぼんやりと見上げ、飛び上がるように立った。

 部屋に入った瞬間、マエズロスの気配が目覚めたのはすぐに分かった。フィンゴンは気づかないのかそっと近づき、肩を揺すった。
 マグロールはほとんど扉から動かずにそれを見ていた。
 兄が懐妊したと、兄の恋人たる従弟は言う。それが偽りでないことはすぐに分かった。――何故分かったのか、はマグロールには言えない。ただ、わかった。ああ、そうなのだ、とすとんと腑に落ちてしまった。
 けれど、すべてを飲みこんで真っ直ぐに尽くすためには、どうしても兄の言葉が必要だった。
 マエズロスは窶れたというには不思議な顔をしていた。熱に浮かされた顔ともまた違う。霧の中にたゆたっている、そんな顔でありながら、不信と警戒のとがった感覚も多大に潜めていた。
 身を起こして、囁きが交わされ、マエズロスはマグロールを見た。微笑む。招かれる。
 兄上、呼びかけて近寄ると、フィンゴンがすっと離れた。
「お身体の具合が…」
 この部屋にわだかまる空気が蛹の殻のようで、壊してはいけない気がして声を潜めた。マエズロスは息をつくような笑い声を洩らす。
「悪く見えるか」
「良いようには見えません」
「これでも良くなったんだ」
「すぐ私を呼んで下さればよかったのに」
 口を尖らすと、マエズロスは目を少し細めて、マグロール、はっとする鋭さで呼んだ。
「体調が悪いのは病ではない」
「……では、なんです」
 マグロールは衝撃に備えて身をかたくした。
「妊娠した」
 音立てて頬を張られたような気持ちがした。
「ど、なたが、ですか」
「私が。――分かってるんだろう、マグロール」
「兄上が」
「そうだ。私が、妊娠した。フィンゴンの子だぞ。言っておくが」
「…………」
 分かっているのに、聞いていたのに、こんなにもぐちゃぐちゃにされる気分になるのは何なのだろう。震えそうでたまらない。冷たい嫌な汗が背を伝う。マグロールは息が足りないように喘いだ。
 眩暈が収まらないような彩になっている視界で仰ぎ見た兄の顔は、声の平静さとは裏腹に、血の気が引いていた。
「兄上、」
 呼び、かかった所でマエズロスは引き攣ったように唇を震わせ、口に手を当てて、ぐう、と唸った。
「マエズロス!?」
「兄上!」
 伸ばした手をぴしりと払われ、マグロールは愕然とする。せりあがる何かをこらえるような仕草。マグロールの脳裏を遠くなった記憶がよぎる。フィンゴンが駆け寄り、マエズロスを抱きかかえる。縋るよりも強く引き寄せる手。ああ。
 マグロールはよろよろと扉まで後ずさった。兄上、兄上、迷子みたいな声が出た。
「母上と…、母上と同じ、」
 フィンゴンがわけが分からないといった顔でこちらを見た。マエズロスはフィンゴンの胸元に額を当てて俯いていたが、ああそうだ、と萎れた声で言った。
「一番酷い時期は過ぎた」
「でも、……でも、ああ、私は…、で、出ています」
 たどたどしい言葉を放り投げて、マグロールは扉を出た。力ない歩みで長椅子に近寄り、うずくまるように腰かけて俯いた。
 そして、考え始めた。

 フィンゴンがおそるおそる奥から出て来た時、マグロールはそういう形の物のように座っていた。
 マグロール? 呼びかけると、ゆっくりと顔を上げる。
「……こういう、ことなんだが」
「ええ。考えていました」
「何を?」
「すべてが無事に運ぶ手立てを」
 重い溜息に合わせるようにフィンゴンはまたマグロールの真向いに座った。すこし前とはまた違う重苦しさが場を支配していた。
「ああ。フィンゴン」
「ん?」
 不意に、マグロールが少し明るい声を出す。
「おめでとう」
 マグロールは泣き出しそうな笑顔で言った。
「兄上にも伝えてください。おめでとうございますって」
「自分で言えよ」
「見たでしょう。ダメなんだ、まだ。時期が悪い」
「時期…」
 フィンゴンが見ている限り、いわゆるつわりの気持ち悪さ、特に吐き気の部類は酷いというわけではなかった。それを言うと、マグロールはアナイレ伯母上は違ったのか、と呟きざっくりと説明した。
「伴侶と一緒だと治まる。他の男が近づくとひどくなる。母上と同じ……としたらですけど」
 フィンゴンは『母と同じ』ということは、と伯母と伯父がくっついているところを想像しかけて打ち消した。想像の範疇を超えていた。
「え、その…匂いかいだり、とか」
 マグロールはすっと目を細めた。フィンゴンはびくりと震えた。
「―――ええ、よく母上の処に立入禁止にされたものです」
 不機嫌を形にしたように言い捨てて、マグロールは立ち上がる。
「あなたがいるうちに弟達を説得します。うまくずらせばヒムリングは問題ない。もう少しして落ち着いたら私も兄上と話せる。そうしたら――、何を伝えてどう動くのか。そこを詰めなくては」
「マエズロスが安心なように?」
「兄上が幸せなように」
 マグロールはゆるやかに微笑んだ。
「あなたが一番大事な駒だ。くれぐれも頼みましたよ、従弟殿」
 ルーエル! 呼ばわり、出て行く――ああ、そうだ。足を止めて、振り返る。
 マグロールはとても低い声で言った。フィンゴン。
「きちんと求婚しなさい」
「ハイ」
 全く、心強い味方である。

   4

 その日のことをフィンゴルフィンは生涯忘れないだろう。
 しかしいつの年のいつの日かは忘れた。所詮エルフの年月に関する感覚などそれくらいのことである。

 名の通りの美男である甥が「叔父上と叔母上に報告することがある」と言ってきたので、ほんのり浮かれた妹にお茶の支度を頼んだ。フィンゴルフィンはそう記憶している。
 実は、というまでもなく、フィンゴルフィンはマエズロスのことがちょっとばかり苦手である。それは全く甥に非のある話ではなく、あの兄の長子だとか、妻の幼なじみだとか、先代の上級王であるとか、そういった細かい事象が積み重なって少し話すのに身構える、他愛もない「苦手」だ。どう考えてもフィンゴルフィン個人の問題だ。しかし甥はそれを分かっているのだろう、よほどのことがない限り叔父を身構えさせぬよう丁重な接触をする。
 そんな甥は長男のフィンゴンとたいそう仲が良く、……最早そういう言葉では実際片付けられない抜き差しならぬ仲ではあるのだが――仲が、良く、従ってフィンゴンが繁々とヒムリングまで遠出をするのも必然であった。忘れられない、自分のものだと宣言するようなあの目、あの目を二度と見たくはないばかりに、フィンゴルフィンはフィンゴンと甥とのことは慎ましく見て見ぬふりをする。
 マエズロスの訪問の先触れは、その長男が持ってきた。個人的な話なんだ。とフィンゴンは言った。
「おれからすれば個人的なんだけど、最終的には王家の話になる」
「……当たり前だろう」
 じゃあ迎えに行って来る、とフィンゴンは去った。フィンゴルフィンは口を曲げてしばし困って、それからイリメを探しに行った。

 マエズロスを見て、イリメはあらまぁ、と声を上げた。無沙汰をしました、そう告げる甥は、イリメの目から見れば花と実ほどに違った。どちらも美しいのに変わりはなかったが。
 隣で兄が身じろぎするのが分かった。フィンゴルフィンはイリメとはまた違った感覚で甥の変化を感じ取った。それは見目がどうのという問題ではなく、悪寒に似た緊張であった。
 よく来た、とかろうじて呟き、フィンゴルフィンはマエズロスの傍らで何か誇らしげに立っている息子をじろりと睨み、甥に席を勧めた。四人が席に着くとお茶が注がれて、どことなくぎくしゃくした茶会は始まった。
 近況報告から他愛もない話を少し、フィンゴンはずっとそわそわしていて、マエズロスもそれをゆるりと窘める、その仕草がどうにも記憶にあるよりも柔らかさが増しているように思えた。フィンゴルフィンは助けを求めてたびたび妹をちらちらと見やったが、イリメはその「いちゃいちゃしている」フィンゴンとマエズロスを微笑ましいわと見守るだけで、焼き菓子が喉に詰まりそうな兄のことは少しも顧みてくれなかった。
「それで、その…、今日。来た理由は」
 絡まっている何かを吐き出すようにフィンゴルフィンは言葉を絞り出した。ああ、とフィンゴンとマエズロスは居住まいを正した。
「結婚します。フィンゴンと」
「そういうわけで個人的な話なんだけど、王家の話にもなるんだ、父上」
 あっけらかんと言い放った甥と息子を前にして、フィンゴルフィンは思い出していた。そう、トゥアゴンがエレンウェを紹介した日のことだ。あの時、心底、「フィンロドと結婚します」と言われないで良かったと、というかもうエレンウェありがとう本当にありがとうこんなアレな息子だがどうぞ末永くよろしく頼むと…!
「お、」
 絞り出した声に、甥は真面目に頷いた。
「はい」
「お、まえたち、従兄弟だろう…!?」
「いやあ、父上と伯父上が異母で本当に良かった」
 フィンゴルフィンは曰く言い難い呻きを洩らして言葉を失った。その隙に、あらあらとイリメがおっとりした声を出す。
「そうなの。おめでとう、フィンゴン、マエズロス」
「……ありがとうございます」
 はにかんで答えるマエズロスと、それは上機嫌な顔でその肩を引き寄せるフィンゴン。仲睦まじいふたりに、イリメは少し身を乗り出す。声をすこぅし潜める。
「でも、今、急に、なのは――どうしてなのかしら」
 叔母の目、茫洋と霞んだような灰色の瞳は一族の誰よりもフィンウェに似ている。その眼差しで見つめられて、ふたりは一瞬目を見交わし、かすかに頷いた。
「こどもができました」
「まあ」
「もうかなり経つんだ」
「驚いたわね」
 フィンゴルフィンが断末魔のような声で「こども………!?」と呟いていたが誰一人気にしていなかった。
「マエズロス、あなたわたくしの姪っ子だったの?」
「え、いや」
「甥、だと思いますが…」
「でも身ごもったのでしょう?」
「私は…両性だったらしくて」
「それって、わたくしがもし両性だったとして、何かのきっかけで男性器が生えてくるということ?」
「生えっ…」
「ああ――はい。そういうような感じで」
「女性器ができたのね?」
「えっ、そういうことか?」
 もう息も絶え絶えなフィンゴルフィンを放ったらかして、イリメはどんどん切り込んだし、マエズロスも素直に答えた。だがここで疑問の声を上げたのが、他ならぬフィンゴンである。
「………フィンゴン、今更何言って」
「えっ? おれ、いつの間にあんたの秘め事に訪れてたわけ?」
 何故かイリメよりフィンゴンの方がよほど詩的だった。謳詠みは違うわねとイリメは感心し、マエズロスは、な、おま、それ、と言葉にならない声を発して真っ赤になった。
 と、白目をむきかけているフィンゴルフィンの横から、すっと焼き菓子の皿が置かれる。
「そういえば、両性の詳しい話ってぜんぜんしてませんでしたね」
 はい、これでしょうレンバスっぽいのって。もうひとつの皿を差し出して現れたのはルーエルで、あれ、フィンゴルフィンさまちょっとしっかりしてくださーい等と言いながら上級王の頬をぺちぺち叩いた。

 クウィヴィエーネン生まれのルーエルによる脱線しつつの両性とは云々の講座が終わった頃にはフィンゴルフィンはもう何もかもを悟りきった目をしていた。
 イリメはすっかり安心した顔で、はしゃいでいた。
「なら問題ないわ。産むのに危ないことなんかないわ」
 名の通りに朗らかな声で告げる。そんなイリメの顔を見て、マエズロスもフィンゴンもきょとんとしている。
「危ない、とは…」
 そうっと尋ねたマエズロスに、イリメはきっぱりと言った。
「だって、男の方だとどこからこども出て来るのかわからないでしょう? その心配が要らないのですもの」
 フィンゴルフィンは泡を吹いた。マエズロスは、ひどく赤面した。

   5

 ヒムリングにだいぶ前から居座っているのはカランシアで、地味に幼馴染でよくよく知っている彼のことだから、フィンゴンは特に心配はしていなかった。
 大体、カランシアの気遣いが一番ちょうど良い。他の従兄弟たち、つまりはマエズロスの兄弟たちだが、過保護だったり悪巧みをしてみたり、心の点で騒がしいことこの上ない。怒りっぽいと言われ、実際頻繁に怒らせるカランシアだが、少なくとも対マエズロス、それとこのヒムリングの連中とはうまが合うのだろう、実に上手く何もかもを回しているようだった。
 弟たちを説得するとマグロールは言った。当初マエズロスはヒムリングにはいない予定だったから――この北の大砦の防備を空にするわけにはいかない。マエズロスの六人の弟たちはそれぞれに守る土地を持っているが、それぞれにずらして守り、ヒムリングにやって来るというわけだ。
 マエズロスが、いない予定だったヒムリングに戻って来ているのには、ルーエルが心底驚いていた。
 彼は当初の――ヒスルムで出産するという――予定のために後からフィンゴンとマエズロスを追いかけてヒスルムに来て、細々とヒスルムにいる彼の弟子たちに指示を出し、足りない荷があるからとヒムリングへの往復の旅に出た。だから勿論、マエズロスとフィンゴンがヒムリングに帰って来た時には、戦中を思わせるほどの慌ただしさで荷を拵えている最中だった。
 ひょいと顔を出したマエズロスを見て、ルーエルは荷造りの手を止めて叫んだ。
「なんで帰って来たんですかっ!?」
 マエズロスはちょっと肩を竦めてみせた。
「叔父上が泡吹いてしまったんだ。仕方ないだろう?」
 そりゃ泡は吹いてましたけど、大丈夫ですよフィンゴルフィンさま頑丈だから、と実に雑なことを言ってルーエルはマエズロスを見て、フィンゴンを見て、マエズロスをもう一回見た。
「……ここですか!?」
「だめか?」
「だ、だ、だめじゃないですけど」
 えっ、寒いのに、ぶつぶつ言うとルーエルはとりもなおさず椅子を引きずってきてマエズロスを丁重に座らせた。
「本当に良いんですか」
「ヒムリングが良いんだ」
 真面目な顔で訊かれて、マエズロスはほのかに緩んだ笑みを見せる。ここでルーエルが目線をやってきたので、フィンゴンは力強く頷いた。
 ルーエルはものすごく歯がゆい顔をしてンンンンと唸った後、絞り出すように言った。
「産屋を……しつらえましょうね……」

 ヒスルムに向かう前に双子とクルフィンはかわるがわる会いに来た。マグロールとカランシアもほぼ交代でヒムリングにやって来る。とんと顔を見かけないのがケレゴルムだが、これはケレゴルムがマグロールの山間を、ほとんどひとりで守っているから、だそうだ。
 なぜそんなことになったのか、尋ねてみたい気持ちはあるのだが、マグロールにばったり会うのをフィンゴンは恐れている。
 断じてマグロールが何かしてくるわけではない。ただ彼は最近、フィンゴンの顔を見ると、目をやんわり細めて、フフ、と笑う。
 それに勝手な台詞をつけてしまうのはフィンゴンの妄想である。筈だ。
「まだ求婚してないんですか?」
「もしかして、フラれたんですか?」
「いつまで待たせるんですか?」
 フフ。
 幻聴だ。妄想だ。気に病むことをマグロールに被せてしまっているだけだ。
 求婚は、したのである。だが、返事は、待たされている。―――もう、マエズロスの腹にはこどもがいるというのに。
 ヒムリングには産室が出来て、産室のものから赤子のものまで、せっせせっせとカランシアが縫物刺繍に精出している。
「マエズロスが、返事してくれないんだあ…」
 そんなカランシアの横でへたばってフィンゴンが呟いても、「おまえが何かしたんだろ」と一顧だにしてくれない。そのくせ縫物の意匠でフィンゴンに聞くことは細々あるので、フィンゴンがただそこで項垂れているのを許してはくれない。
「ぐんにゃりするな」
「したくもなる…」
「堂々としてろ。僕らがなんでこんなに協力してると思ってる」
「そりゃ…、マエズロスのためだろ?」
 カランシアは当然、というふうに鼻で笑った。
「そうだな。兄上の幸せのためだ」
 だよなあ。また突っ伏したフィンゴンの頭を見て、カランシアは呆れた溜息をひとつ。
 兄弟みな、長兄の幸せには何が必要不可欠なのかわかっているのに、その必要不可欠本人がそれをわかっていないのだ。
 カランシアは思案し、一針、布に指を進める。
 さてこの面倒臭くなっている幼馴染にどう喝をいれようか。
 次兄が痺れを切らす前に分からせないと酷い目に遭ってしまう。長兄が悲しむのも次兄が怒るのも見たくはないのだ。
「おまえは悩まずに進めばいいんだよ」
「これが悩まずにいられるかあぁ…」
 似合わない悩みに嵌りこんでる奴の背を蹴飛ばすのは誰が適任だろうか。
 ――手紙を書こう。そう思いながらカランシアはまた一針進める。フィンゴンはまだぐずぐず言っている。

   6

「既婚者の顔になったな」
 顔を合わせたカランシアに、少し鼻にかかった声で言われて、フィンゴンは、うん、と頷いた。
「なんだ、しょげた顔して。……指輪は?」
「ない。なーんにもない。銀も金も。贈り物も。マエズロスの希望で」
「兄上の?」
 クルフィンが襲撃しなければいいけど。おまえを。言いながらカランシアはフィンゴンの額をべちんと叩く。
「僕はおまえが幸せ絶頂な顔してると思ってたんだが?」
「複雑だったんだよ」
「何が」
「その…結婚?」
「なんだそれ。したんだろう、儀式」
「したけど」
 フィンゴンは少し口をとがらすと、何だかんだとやさしい幼馴染に、何だかこみいった結婚の儀式について話しだした。

「お兄様があんなだから、結婚を見届けに来てよ。フィンウェの娘で我慢して貰えるかしら」
「従弟たちを代表してはわたしが。落ち着いたら盛大にやりたいなあ」
 そんなことを言いながら、イリメとフィンロドがヒムリングにやって来た。
 フィンゴンは内心歓喜した。証人が来た。頼んでもいないけど。
 結婚の立会人は、通常は花嫁の母と花婿の父だ。そもそも両家揃っての宴が習わしではあるが、この状況でそれが出来るはずもない。だからいっそ、叔母と、違う家の従弟というのは、あまりにもぴったりな気がした。
 意気揚々と部屋に連れて行くと、マエズロスは長椅子に腰かけてじっと手を腹に当てていた。傍らでルーエルが薬だか茶だかよく分からないものを注いでいた。
 服をあちこち変えたからか、膨らんだ腹はぱっと見ただけではよくわからない。もともとが細身のマエズロスだからああ線が違うなと思うのであって、有無を言わさぬ真顔で太ったとでも言われれば、それはそれで納得してしまいそうなほどだった。
 あんまり膨れないんだな、と言ったフィンゴンに、マエズロスは悪戯でもしているような顔で、まだまだ、と答えた。つまりはもっと丸々大きくなるものらしい。考えてみてもさっぱり想像がつかない。
 記憶をたどれば確かに母のまるい腹にくっついた日もあった筈なのだが。
 マエズロスは二人の客に驚き、挨拶の後、うきうきと結婚と言い募る三人に、ぽつりと言った。
「盛大にやる必要はないと思うが…」
 ええー。と今にも口に出しそうな顔をしたイリメとフィンロドに、マエズロスは、ふと思案気に眉を寄せる。
「そもそも、……結婚する必要があるのか?」
 室内は全員真顔になった。
「――兄上に、『結婚する』って報告をしたのはあなたじゃなかったかしら、マエズロス」
 イリメが頭痛を耐えるような表情で問うと、マエズロスは腰かけたまま叔母を見上げて神妙に頷く。
「ええ、叔父上にはそれが一番分かりやすいかと思ったのですが…、よく考えたらこどもの親であることは変わりないし、わざわざ結婚をしなくても良いような、と」
 フィンゴンは息が止まった。ルーエルが、物凄く不満そうな声をあげる。
「そりゃあここベレリアンドなんで、確かに…、確かに必要は、ない、ですけどぉ」
「え?」
 マエズロスはせわしく数度、瞬いた。
「ああ、そっちか」
 納得したようだが、マエズロスが分かってもフィンゴンには分からない。イリメも訝し気に眉をひそめた。
「フィンロド、どうだ?」
 え、とフィンロドは戸惑った。そっち、口の中で転がして、ああ! 分かったと晴れやかな顔は、見る間に困って眉が下がる。
「うーん、あまり、変わりはないよ?」
「ないのか」
「当たり前の域だもの」
 当たり前か、と難しい顔をするマエズロスが、フィンゴンにはとても遠く思えた。
 息が苦しいのは何故だろうか。――マエズロス。呼ぶと、声にはなんとかなっていたのだろう、恋人は振り仰ぐ。
「あんたはおれと結婚するのやだ?」

 マエズロスはゆっくり立ち上がった。
 見た目にはそうでもないかもしれないが、実際のところ、腹がとても、重い。だから動作も緩慢になる。
 いつもならば向こうから駆け寄ってくる恋人は、根でも生えてしまったかのように動かない。動けない。
 フィンゴンの前に立つと、よく見えた。強張ってかたい身体も、溢れそうな潤みを押しとどめている紫の瞳も。
 両頬を包むように触れると、ほんの少し震えた。マエズロスはゆっくりと、噛んで含めるように尋ねた。フィンゴン。
「お前はどうして、私と結婚したいんだ?」
 フィンゴンは打たれたみたいに口を曲げた。
「したいから」
 言うと同時にマエズロスを引き寄せる。
「どうしても。……あんたは、おれと結婚は、したくない?」
 抱きしめられて顔が見えないので、マエズロスも少し眉を顰めた。
「ああ、したくない」
 途端に震えた腕に苦笑して、マエズロスは少し身を離す。溢れだした滴を指先で払って、続ける。
「お前以外とは、絶対いやだ」
 それから何を言おうとしたのか、薄ら開いた唇に噛みつくように口づけた。

 ふたりが身を離したのは、その腹に衝撃が走ったからである。
 あっ。言った声が重なった。フィンゴンは咄嗟にマエズロスの腹に手を当てたし、マエズロスも目を瞠って手を重ねた。
「蹴った…?」
「蹴った。蹴ったぞ!」
 フィンゴンは即座に跪いてマエズロスの腹に耳を当てた。耳をすましてもよく分からない。
「えっえっ。前から動いてた?」
「動いているのかなとは何回か…でもこんなにはっきり分かるなんて」
「座ろう、座ろうマエズロス!」
 その後はすっかり胎動を探るのに夢中になって、ふたりが我に返った時にはとっくに後の三人は姿を消していた。
 結婚の誓約と祝福の儀をしたのは、その夜のことだった。

「まあ、良かったんじゃないか?」
 話を聞き終えてカランシアが投げやりな声で言うと、フィンゴンは妙な顔をする。
「よく…良くないだろ」
「とにかく儀式はした。兄上とおまえは結婚した。良いだろう」
 僕はやることがあるんだ。さあ行けよ。フィンゴンを追い払ってしまうと、カランシアは溜息をついて椅子に腰かける。
 マエズロスの思惑なんて、フィンゴンは知らなくていい。そのまま心のままに進めば良い。
 うまく説明できそうになくて追い出したけれども、カランシアはフィンロドと話さなくてはな、と考えていた。

   7

 フィンゴンはここ最近上機嫌だ。かなりはっきりした胎動をするようになった腹を、マエズロスが弟達にも触れさせないと知ったからだ。
 そこに至るまでには色々と――特にマグロールと――すったもんだしたものだが、今のところ喋りかけながら腹をぽんぽん叩けるのはフィンゴンだけである。
 マエズロスが特に気分の良い時は、そろりと服を寛げて、直に腹に触れさせてくれたりもする。もともと白い肌が、ふくれているから少し引き伸ばされるように薄薔薇色と青みがさして、なんだかフィンゴンは畏れ多いものを見た気分になる。そんなようなことをもごもご言ったら、マエズロスが斜に流した目をして「さわってくれないのか?」などと言い出したので、フィンゴンは以降、これはおれの特権だと全身で主張することにした。
 手だか足だかは定かではないが、内側からぼこんぼこんと小さな生命が主張してくるのを、マエズロスはとろけそうな顔をして受け止めている。時々は「あ痛」などと言ったりもする。暫くすると、腹を叩き返すようになった。えらいぞ、良く出来た、ほらこっちだ、腹の中と叩き合いをしている。
「それ、楽しい?」
「とても」
 試しにやらせてもらったら、楽しいは楽しかったものの、本人がやるより強く響くらしい、マエズロスのちょっと痛がる声がその、と後で幼馴染にごにょごにょ言って恐ろしく冷たい目で見られて、懲りたフィンゴンである。
 マグロールは本領発揮とばかりによく歌いに来る。
 曰く、腹の中の動きは違うらしい。腹の中のことは分からないが、マエズロスの気持ちは見ていれば分かる。フィンゴンは少し悔しい。
「ご機嫌だな。好きなんだろうな」
 まずもって自分には向けられない慈しみ深い目で言うものだから、フィンゴンは、やきもちを焼ききれない。
 マグロールはちらっとフィンゴンを見て、またフフ、と笑った。
「いつでも歌いますよ」
「そうだな。一緒に歌ってやってくれ」
 言われたマグロールが、はい、と声にならない声で答えて、見たこともない顔で笑うので、フィンゴンは何もかもを許せるような気分になる。
 とはいえ少し経つとなんだか悔しい気持ちがぶり返してきて、マエズロスを後ろから抱きしめながら、肩口で不満を洩らしたりもする。そりゃあ、マグロールの歌に敵うとか、思っちゃいないけど。ぶつぶつ言うのにマエズロスが首をかしげる。
「お前の声もすごく好きだが…」
 フィンゴンは拗ねた顔のまま、戯れを言う。
「あんたが?」
「私もだが、この子が」
 さらりと肯定されて一気に恥ずかしくなったが、耐えてマエズロスの手に手を重ねた。
「ほんとに? おれの声聞こえてる?」
「ああ、良く動く。面白い」
「何だよ面白いって」
「おそらくだが、踊っている」
「踊るっ?」
「そう驚くことじゃないだろう。お前だってなにかと踊ってたぞ」
 ちびの頃は特に、と続けられたのでフィンゴンは降参した。その話はやめてくれ。

 そんなわけで『おれの特権』を存分に満喫していたフィンゴンだったが、ある日、とんでもない光景を目の当たりにした。
 室に入ると、マエズロスが奥の長椅子に座っている。のは良いとして、その前にいる黒髪の男が、あろうことかマエズロスの腹に耳を当てていた。
 聞こえるか? じゃないマエズロス、なんて優しい顔をして、いやそれも違う、フィンゴンは心に暴風雨を吹かせた勢いでずんずんと突き進んだ。謎の男が気づいてこちらを向く。
 フィンゴンはぎくりと足を止める。その冴え冴えとした顔、何よりも火の印象が勝る――面と向かったことなど数えるほどもない、今は、もう、亡き、
 幻を見ているのかと思った。フィンゴンが身震いをすると、亡き伯父に生き写しの顔をした男は、絶対に伯父ではありえないゆるい笑みを浮かべ、
「あ、フィンゴン小父」
 ひらひらと手を振った。フィンゴンは息をなんとか飲みこんで、恐る恐る聞いた。
「………ケレブリンボール?」
 マエズロスが苦笑し、従弟の息子は立ち上がる。
 落ち着いて見れば、ごく若いケレブリンボールは確かにまだ少年の面差しで、しかしながら目線を合わせるのにほんの少し上を向かねばならなかったことに、フィンゴンは内心舌打ちする。
「お前…、背が伸びたな」
「うん、最近親父様に『にょこにょこ伸びおって…』とか罵倒される」
「罵倒って」
 親父様口悪いからー。大して気にもしていなさそうな声で続けると、ケレブリンボールは勢いよくフィンゴンの手を握った。
「さっきマエズロス伯父には言ったんだけど、フィンゴン小父、おめでとう!」
「お、おお」
「俺イトコが出来るんだなって、すっごく嬉しい! それで親父様にどうだったって聞いてたら自分で見に行ってこいって、伯父上が」
「ケレゴルムが送りに来てたんだ」
 マエズロスの補足が入り、フィンゴンはせわしく頷いた。
「次に会うのって多分こどものお披露目でしょう。俺、すごく、すごーく、すっごく楽しみにしてる。会えるの」
 ケレブリンボールはマエズロスの方を向いて、ふわふわと笑う。
「男だと俺は嬉しいんだけど、でも、いいや、どっちにしろ美人だろうし」
「…おれに似てたらどうすんだ」
 マエズロス似ならそりゃあ男の子でも女の子でも美人だろうが。そう思いながらフィンゴンが突っ込むと、ケレブリンボールはきょとんとした。
「フィンゴン小父もかわいいよ?」
「かわっ…!?」
「違いない」
「あんたまで!?」
 とうとう笑いながらマエズロスが同意したのでフィンゴンは目を剥く。
「イドリルもフィンドゥイラスもちゃんと話したことないから、その子とたくさん話せると良いなー」
 ケレブリンボールはにこにこ続けた。マエズロスは笑いをおさめると、夢みるような瞳をして、腹をさすった。
「ああ。会いに来てくれ。お前のイトコに」

   8
 

 日々膨れ上がる腹があんまり重くて、胸まで塞ぐような気分がする。
 マエズロスはまどろみの中で、息が止まる錯覚をする。
 死ぬかな。死んでもいいな。すぐ傍らでやさしい息をしている相手に聞かれたらとくと怒られそうなことを考える。
 あの時も、そう思っていた。思い出す。まどろみの内に思い出すのは、うつつに起きたことなのかどうか、何もかもが曖昧だ。
 鷲の背だったかもしれない。この寒き砦で温めあっていた時かもしれない。
 とろけて死んでしまいそうだと思った。死んでもよかった。
 ただ愛しいと、そういう思いの塊になってしまうのなら、それが望みだと思った。
 そんな睦み合いが実を結ぶとは思ってもみなかった。こうなってさえ、時々影のようにこれは夢か何かではないかという思いが掠める。
 夢ならまだ良い。自分がどこにいるのか、分からなくなる。

 そんな思いに浸っていると、フィンゴンはマエズロスに触れて、包むような声音で囁く。良くなっていく。
 おれはここにいる。あんたの傍にいる。何もかもが良くなっていく。少しずつ、良くなっていく。
 何度も繰り返し、身体と心を包んで熱を帯びていく。
「おれは信じる。あんたもおれを信じてくれ」
 お前を信じている。マエズロスは思う。お前を信じている。私自身よりも。
 声に出さないその思いを知っているのか知らないのか、フィンゴンはとけてしまいたいように抱きしめる力を強くする。
 死んでもいいな。また掠めた思いに何か言いたいのか、腹がひとつ、どぉんと鳴る。

   9

 真夜中過ぎまで降りに降った雨はようやく止んで、けれどもこの未明に、吹き止まぬ風がごうごうと唸りを上げている。
 その音にも紛れない、もうひとつの呻き声は止む気配もない。
 フィンゴンは項垂れて蹲っている。篠突く雨をかき分けるようにして来たものの、それこそ何の役にも立てていない。それがつらい。
 予定よりもずっと早い出産だ。初めてだからそんなこともあると教えてもらった。けれども陣痛が始まってからもう丸二日経つ。ヒスルムに出かけたフィンゴンを追いかけて使者が来て、それから慌てて戻って来るだけの時間があった。
 ヒムリングは静かだった。雨風の中から飛び込んだからそう思っただけかもしれない。
 フィンゴンを出迎えたのは、もちろん出かける前にやって来ていたカランシアだった。爪を噛みそうな顔をして、フィンゴンに、ともかく身支度をしろと言った。
「へ」
「そんな恰好で産室に入る気か?」
「あ」
 へどもど言っている間にカランシアはてきぱきと着替えを押し付けて、ぼそりと、来てくれてよかったと言った。

 ――そういう歓迎を受けたのに、フィンゴンは、産屋の前で呻き声を聞いているだけしかできない。
 そもそもが、マエズロスには「絶対入るな」と言われていた。理由はないと言っていたが、あの顔は絶対何かまた隠し事があるのだと分かっていた。追及しなかったのは体調を慮ってのことだ。
 だけどこうやって声を聞いていると、会いたくてたまらなくなる。
 項垂れた頭に別の影が差す。のろのろと顔を上げて見れば、カランシアが押し殺した声を出す。
「行けよ」
「え?」
「行かない方が死にそうだろ。僕は死んだ」
 カランシアがひどく思いつめた顔で言う。フィンゴンは、囁くように返す。
「……入って、良いのかな」
「入っちゃいけないわけがあるか」
「でもマエズロスは入るなって」
「ばか」
 手が差し出される。フィンゴンが咄嗟に掴むと、そのまま引き上げられる。
「前にも言った。――おまえは、悩まずに、進めば良い」
 フィンゴンは、そうして、産室に、入った。

 あれほど風が吹いたから、明け方の白い光は清い輝きになって差してくる。
 産声が上がって、風の音に張り詰めるようだったヒムリング中の気配がふと緩む。
 ややあって、穏やかないくつかの声を背に、フィンゴンが産室から出て来る。カランシアと目が合うと、じんわりと笑う。
「泣いてないな、泣き虫」
 言ってやると、フィンゴンは珍しいものを見たというふうに返す。
「君の方が泣きそうな顔してる」
「ああ。こんなに嬉しいことはない」
 外にいたカランシアはいたく感動していたのだが、中にいたフィンゴンから語らせると、ええと、なんというかその、うん、感動してくれたんならいいや、こどももマエズロスも元気だし。とそういうことになる。
 待てよなんだそれはキリキリ吐け、と揺さぶって白状させたところによると、マエズロスは錯乱してた。ということになるらしい。
「右手を握ってくれ、って言われたのが一番その、なんか、きたっていうか…」
「みぎて」
「うん、安心しろ好きなだけぎゅっとしていいぞ、って言ったら」
「たら?」
「大嘘つきって叫ばれた…」
 カランシアは目をうろうろと彷徨わせた。それは確かに錯乱と、いや右手をぎゅっとできないのは真実だし、と諸々の気持ちがないまぜになっていた。他にも様々あったようだが、カランシアは聞くのをやめた。気になるなら後で聞き出すだろう。マグロールとかが。
 フィンゴンは明け方の光を仰ぐように見つめ、ああ、と声を洩らす。
「綺麗だ…」
 カランシアも同じ方へ眼をやる。遠くにはほんの少し雲が残り、間もなく昇るだろう陽光の最初の輝きが、空にふわりとした薄赤の紗をかけている。青もまだ夜の名残を残して透き通り始めるその色、美しい紫が見える。
「あの色」
 フィンゴンが少し震えた声で言う。なあ。
「息子の眼はああいう色をしている」
 カランシアはフィンゴンの方を向かない。ただその明けていく空の紫を見つめている。
「何を見るんだろう、あんな綺麗な眼をして…」
 なあマエズロスが、ほんとに、マエズロスが、おれの息子を、それでおれに似てて嬉しいって、そんなこと言うんだ、まだ似てるなんてわかんないだろうに、なあ、ほんとに、おれ、
 潤んだ声でフィンゴンが言い募るのを、カランシアはぼやけた視界で聞いていた。
 なんて美しい明け方だろうか。

 ああ、今日はとても良い日だ。

   10
 
 ねうねうと変わった声を出しながら、おおきく膨れた腹に息子が顔を埋めている。
 ぷー。ぶー。ちいさな唇を付けて、変な音を鳴らす。
 そっと手を伸ばしてやわらかな黒髪を撫でると、エレイニオンはぱっと顔を上げて、夜明け色の目をきらきらさせる。
 それから急いで長椅子の横によじ登ると、頬に小さく音をたてて口づける。
「あのね。げんきだよって。はやくあいたいって」
 耳にそっと囁いてくる。そうか。小さな身体を引き寄せると、息子の手を覆うように手を重ねて、一緒に腹を撫でてみる。
「さっきも動いていた。わかるだろう、…ほら」
 あっ。探り当てたか、どきどきした顔がふにゃりととけた。

 そんなことがあったと、今はすうすう寝ている顔を眺めながら話すと、フィンゴンは見たかった、と拗ねた顔をした。
 重たい腹をふたたび抱えて横になっているので、エレイニオンはフィンゴンの腕に掴まえられている。あんたの腹に転がっていったら事だからな、などと真面目な顔をしてフィンゴンは言ったが、本当のところ息子をぎゅっとしてみたかっただけなのは分かっている。
 私はぎゅっとして貰えないのか?
 ――と言ったら盛大に慌てるだろう。慌てて、どっちも、どっちも! と言うに違いない。想像しただけでおかしかったので笑っていると、フィンゴンは一瞬危ぶんだ顔をした後、ふにゃりと笑った。
 ああ、そんな顔が本当に似ている。
 胸に満ちあふれる幸せで、息苦しくなる。
 エレイニオンが産まれた時、いったい何処から現れたのか定かではないがトゥアゴンが来て「フィンゴンそっくりに産んだことは褒めてやります」と言われた。息子が父親似なのには自分自身褒めたい気分だったから満足して享受しておいた。当の似ていると言われた父親はと言えば「まだ何が似てるとかわかんないだろ…」と困惑していた。
 いいやフィンゴン、たぶんトゥアゴンは黒髪なだけでまず合格、と思っている。
 今この腹に抱えている子は、おそらく赤毛だろう。エレイニオンが腹にくっついて「あかいこー。いつあえるの?」と聞いて来たから、叔父たちの間では勝手に赤毛だということになっている。異論はない。
 この頃は笑ってばかりいる。二度目でも変わらずあれこれのことが辛いし痛いし息苦しいが、幸せに溺れて死んでもいいとは思わない。生きていたい。生きたい。
 そんなことを思っていると、フィンゴンがほら良くなってきた、と言いたげに見つめてくる。見つめ返す。フィンゴンの瞳は雷光の紫、エレイニオンの瞳は夜明けの紫。
 私は幸せだ。
 フィンゴンが伸びあがるように身を寄せて、口づけをする。夜はやさしく、このひと時をくるんでいる。