ノルドール族に不穏な影が差し、フェアノールはティリオンを追放となり、
フォルメノスへ移住したことはすでに語った。その頃になると、晴れたかのように見えた憂鬱な雲が、またエイセルロスの心に押し寄せて来た。
かれの耳には遠い歌が聞こえた。それは海へ赴けばより強くなるように感じられた。光の彩に、面影がまなかいを過るのを見た。かつてそれで不思議な縁を結ぶこととなったのだった。かれの胸で言葉はわだかまり、震える舌はたびたび音にならぬ声を乗せた。
フィリエル!はるかナン・エルモスの森で風と木々が奏でるように。
かれは中つ国へ行くことを決意した。
イングウェの承諾をどうにか取り付け、エイセルロスはフォルメノスへ向かった。フェアノールとかれの息子たち、そして誰よりもフィンウェに別れを告げようと思ったのである。
フォルメノスは西の奥深く、北の遠くにあった。その日、砦の門は客人をひとりだけ迎え入れた。フェアノールは頑なに父王への客人を拒み続けてきたが、さすがにローメンディルを追い返すのは憚られた。後にマンドスの案内人と呼ばれるようになってからは、更にかれの駆ける地は多くなったのだが、この時であってもすでに、エイセルロスに行けない場所はほとんどなかった。
「湖は忘れられませぬ」
庭の緑を眺めやりながらエイセルロスは言った。
「私もだ」フィンウェは言った。
「星を、湖を忘れられるとは思わない」
「忘れたいとも思いませぬ」
フィンウェはほほ笑んだ。
「そう、ローメンディル、それではそなたは、ここまで別れを告げに来たと言うわけだ!」
エイセルロスは頷いた。
「子が育ち、さらにその子が育ち、そのまた子が生まれるほどに時は過ぎました。今、私は旅立ちたいと思うのです。その時が来たのです。私の憧れに翼がつきました!星と、星の下の湖と、愛しい者が私を呼ぶのです。海を越えて。
暗く遠い海でも、星へ向かうのならば恐れはないでしょう!
私の愛は銀の歌い手にあるのです。今まではそうでした。今はそれがより強くあるのです。ローメンディル。名の通りに、私は薄明の地へ向かいます」
「では、ご機嫌ようと言うべきだろうね」
フィンウェはエイセルロスの額に口づけた。
「ローメンディル、友よ、行く道に苦難多かれど幸あれ!そなたの愛と巡りあえますよう。私の愛はもう、戻りはしないが」
エイセルロスはほほ笑んだ。
その時だった。二人は共に、大いなる懼れに捕らわれて立ち竦んだ。
フォルメノスには闇の力が訪れていた。メルコールがフェアノールを訪ねてやって来ていたのだった。フィンウェは門へと向かい、エイセルロスは後に続いた。光は遠ざかり、濃い闇が周囲から打ち寄せる波のように押し寄せてくるようだった。門へ近づくにつれ、かれらの耳には甘くねぶるようなメルコールの声が聞こえた。と同時に二人には、ねっとりとした甘い罠の旋律、冷たく悪意ある『力ある者』の言葉が聞こえた。
「ヴァラリン!」
フィンウェは厳しく囁いた。
「あの子が気づかぬ筈がないのだが!」
フェアノールが黙っている間もメルコールは語り続けた。なぜならばかれは堕ちたとはいえヴァラであり、ヴァラの言葉は世界に強く作用するものであった。ヴァラールはかれのことを『誘惑する者』と呼んだ。相手がフェアノールでなければ、このフォルメノスでの門前でのやり取りは、もっと素早く、簡単に終わりを迎えていたに違いない。
だが、メルコールの相手はフェアノールであった。かれは元より強靭で、屈するのを良しとしない精神の持ち主であった。と同時に今は、酷く疑り深く頑なな心持ちであった。ヴァラの言葉は強い誘惑を露わにしてかれに襲いかかったが、かれの心は甘い言葉を理性に吟味させた。
それでフェアノールは黙していたのだが、そのうちにあるひとつの感情が湧きあがった。怒りである。怒りは瞬く間に膨れ上がり、フェアノールの全身を支配した。するとかれには誘惑するヴァラの姿がはっきりと見えてきた。その裏に隠された黒い思惑を目にした途端、フェアノールの怒りは嫌悪に取って替わった。かれは高らかに告げ、門を閉めた。
「わが門から去れ、汝、マンドスの囚人よ!」
メルコールは咆哮のような叫び声を上げた。そして、あるひと続きの、おそろしく力の籠った言葉をフォルメノスの壁に撃ちつけた。黒い石の砦はわななくように震えたが、ヴァラは突然ぴたりと口を閉ざすと、来た時と同じように音もなく去った。
門の中の3人はその言葉を聞いたが、反応はそれぞれに違っていた。
フェアノールは自身の激しい怒りにとらわれていたので、言葉の意味を深くは理解しなかった。
エイセルロスは、ヴァラリンのそれに何か不吉な予感を覚えて黙り込んだ。
そしてフィンウェは非常な恐れに襲われた。かれにはメルコールの呪いが、その言葉の示すものがはっきりと分かったのである。それはすでに単にフェアノールのみの問題ではなかった。ノルドールの問題ですらなかった。そこでフィンウェはエイセルロスに言った。
「影は次第に長くなる。あの星々の下で、遠い地の震えるのを聞いて恐れたように、光を呑みこむ恐れを感じる。この歌で出来た世界で、言葉はどれほどの力を持つか!さあローメンディル、今こそ風より迅く報せをヴァラールに。疾くゆけ。そして伝えてくれ」
エイセルロスは弾かれたように駆け出した。
空はまるで何事も無かったように穏やかな薄青をしていたが、かれの眼には先程の闇の記憶が濃く見えた。そしてまた、フィンウェの言葉はかれに中つ国のことを強く思い起こさせた。いまやそれはフォルメノスへ訪れた時のように希望に満ちた回想ではなかった。かれには闇と、その奥深くの血のことばかり思い出された。不安がかれの足と心とを駆り立てた。
「ああ、フィリエル」かれは呟いた。今のかれには、至福の地ですら枷のように感じられた。
エイセルロスは驚くべき速さでフォルメノスからヴァルマールへ至り、審判の輪にてヴァラールにメルコールの訪れを告げた。ヴァラールの追跡がただちに為されたことはすでに語った。至福の地は一旦、元の平穏を取り戻した。
けれど、エイセルロスの心はそうではなかった。多くの者が口々に彼を留めようとした。イングウェは何も言わなかった。それでエイセルロスは、実り多き平原を、白き雪抱く峰を、水晶の丘を後にした。
そしてトゥーナの影なす道を、東へ向かって降りて行った。