多くのテレリ族の船が白鳥を模っていることはすでに述べた。エイセルロスの船はそのようではなかった。かれの船は一見して、木を生やした木の葉のようだった。帆を張るといよいよ不思議に見えた。
その帆を幾つもの縄で操って、エイセルロスは器用に船を進めるのだった。逆風でも船は進んだ。
ぼんやりとした柔らかな琥珀色に彩られた船は、中つ国へ向かうにつれ暗くなっていく空に、
星を誤って落としてしまったと思わせるような輝きを放っていた。
船を動かすものとは別に、エイセルロスはもう1枚帆を掲げた。それはかつてかれがミンドンに住まっていた時に戸口に掲げていた旗であり、かれ自身の紋章、薄明の花が刺繍されていた。
さて、時は祝祭の季節であった。テレリ族は季節の移り変わりにほとんど頓着しなかったが、エイセルロスはふと季節を思い、主君を思ってカラキリアへ、そしてタニクウェティルへ目を向けた。
何か胸苦しいような、不思議な予感がかれを支配していた。ヴァンヤール族はこの季節、ノルドール族と共に盛大な祭りを行うのだった。カラキリアに聳えるトゥーナは白く美しく、イングウェはマンウェとヴァルダの宮居にて、客人を迎えるのに忙しくなった時期だろうと、エイセルロスは思った。
けれどもティリオンにフィンウェはいないのだった。そうなると祝祭はどうなるのだろうとかれは思った。
「可哀想なフェアノールさま」
かれはぞっとして呟いた。
もしも片親が去ったのが、フェアノールの炎を駆り立てる原因になったのなら、それは少なからずエイセルロスのせいでもあった。そしてミーリエルが何もかもを捨てていったのと同じように、エイセルロスも今また何もかもを置いて、海を渡ろうとしているのだった。
海の彼方に、何よりも愛しく思う者が呼ばわるがゆえに。
かれはアマン中を駆け、子らと親しみ睦まじく過ごしたが、かれ自身の子は手の届かない場所に長らくいたのだった。
あいたいと、そう思い続けて過ごした日々が終わろうとしていた。
エイセルロスは軽やかにトゥーナの影なす道を駆けあがった。
白きティリオンは、祭りの高揚を滲ませつつ静まり、ミンドン・エルダリエーヴァの変わらぬ灯火がかれを迎えてくれた。銀に輝く光なす道を駆け降りると、喜ばしい季節の平原が広がっていた。平原を駆けてかれはコールにたどりつき、茶と灰色の柔らかな階を上った。白き峰は春の喜びに沸き、光は銀と金を混じらせて美しく、すべてが満ち足りていた。
エイセルロスは祈った。
置いてきた、そして置いていく全てのものに、どうか祝福があるように。
それは突然のことだった。エイセルロスはまざまざと不吉の影を見たと思った。二つの木の二つの光はもだえ、揺らぎ、不意に失われた。最後に漂った光の粒子も見る間に暗闇に飲みこまれ、遠きにすぎるおぼろげな星の光と、灯火だけが残った。
夜であった。
中つ国の薄明よりもなお悪い、恐ろしい闇が至福の地に訪れたのだった。
エイセルロスは凍りついたように立ち竦んでいたが、はっと我を取り戻した。かれはエゼルロハールを見晴るかし、よりいっそうの闇を見た。振り返り、聳え立つタニクウェティルに遠い星明かりを見た。その時、はるか東から冷たい風が吹き付け、カラキリアを抜けて闇にぬめるヴァリノールを浸した。心は決まった。エイセルロスは走り出した。北へ。北へ。
風ばかりが耳を打った。エイセルロスには何の音も聞こえなかった。何の歌も聞こえなかった。足は闇の中を通り、光の恵みを失った大地を進んだ。北の砦の黒い壁の前で、それが押し寄せて来た。エイセルロスは大地に身を投げ出した。
血と闇!遠い薄明の地で、星の光を呑みこみ、時にクウェンディに覆い被さってきたもの。その気配を感じ、エイセルロスは顔を伏せ、次の瞬間もっと嫌な予感を胸奥に感じて起き上がった。
盲いたような闇がかれの眼前にあった。
纏っているのは血の匂いと死の香、そして酷く飢えた叫びであった。嵐のようだった。闇は光を失った地を暗く照らし出し、その時確かにエイセルロスを見た。エイセルロスは耳を塞いだ。世の希望を打ち砕くような狂った笑い声を、それがあげたからである。それはもはや誘惑するヴァラではなかった。純然たる絶望と破壊の力であった。それは荒れていた。飢えていた。おかしなことだと、どこか遠くでエイセルロスは思った。見つめれば見つめるほどそれは形も色も失って虚無になり、何もかもただ昏く見えた。
息苦しさを覚えて眼をそらそうとした時、それは行き過ぎた。
エイセルロスは息を弾ませ、震える身体でフォルメノスに立っていた。
恐怖に竦む胸を、激しい不安が打っていた。エイセルロスは重い足を踏み出した。黒い壁を回り、かれは堕ちたヴァラの所業を目の当たりにした。
「血と闇!」かれは呟いた。
その光景をエイセルロスはかつて見た。
「ああ、」
かれは暗い奈落を覗くように闇の中に更なる夜を見た。夢であり、予見であるそれは重苦しいものだった。かつて見た時よりもなおはっきりと、そして不安に満ちていた。
名を呼ばれ、エイセルロスは夜の予見から立ち戻った。
呼んだのはマエズロスであった。フェアノールの子らがフォルメノスに戻って来たのだった。
「さあ、」
エイセルロスは蒼ざめて、マエズロス公子に手を伸べた。
「私が道を見つけます。行かなくては!」