泉のほとりのこと

 旅の終わりが近づいたある時、エイセルロスは遣いに出た。フィリエルの顔は幾久しく見ていなかった。
 かれの心はテレリ族のいる方へ、ナン・エルモスの森を越えた向こうへさまよわんとしていた。
 ノルドール族の宿営地を離れ、かれの足はレギオンの森を駆け抜け、ナン・エルモスの森へ向かった。かれは風の音、木々のざわめきにフィリエルがかれを呼ぶ声を聞いたように思ったのだ。けれど星明かりの森にかの女の銀の髪は見えず、かれは落胆した。だがそれでもかれは、森の奥へと歩んでいった。

 ナン・エルモスの森は守られて美しく、命のささやきに満ちていた。その響きを聞くうちに、ふとエイセルロスは言葉を呟いた。フィリエルに向けた言葉だった。言葉はすぐに旋律を帯び、歌となった。歌はかれの愛するリンダール、歌い手と称するテレリ族の洗練にはとうてい及ばぬ素朴なものであったが、
森のささやきと非常に調和していた。そしてかれの気持ちともぴったりと合っていた。
 かれは歩みを止めると、木々の蔭に寄り添ってもう一度歌った。歌の終わりにかれは、フィリエルの名を呼んだ。風のざわめきに紛れてもう一度、さらにもう一度呼ぼうとした時、かれは自分の名を呼ぶ声を聞いた。木々の間に踊る銀を見つけ、かれはそちらへ駆けた。しかしエイセルロスはそれを見失った。
かれが足を止めた時、またかれの名を呼ぶ声がした。かれはフィリエルの名を叫び、再び駆けた。そんなことが幾度続いたのか、森の木々のざわめきすべてが、ふたりの名を繰り返すかのように感じられる頃、ふいに、エイセルロスはフィリエルを泉のほとりに見出した。名を呼び、かの女が振り返るより先に、かれはかの女を両の腕に抱いていた。木々はいっせいにささやいた。「フィリエル!」そしてかの女は言った。
「わたくしはここにおります」と。

 エイセルロスはこれまでフィリエルにふれたことが無かった。身よりも先に心が融けあっていたからである。だが今かれは、かの女をその腕に抱いていた。その身はふたつのままふれあっていた。
 ふれあってみると、ふたりはもっと深くふれあった方が良いように思われた。そこで、かれはかの女にくちづけた。かの女は、自らの音楽を生み出す吐息をすべてかれに預けた。かれはそれを嘉納し、さらに多くを求めた。
 ふたりにとって今、世界が互いであり、互いが世界だった。その世界はひとつのものであるのが良いように思われた。

 そこでふたりはそのようにした。すなわち、泉のほとりに横たわり、身と心を融けあわすことに没頭したのである。

 かれらは互いの髪を絡め合わせ、泉のほとりに横たわっていた。身も心もとうにふたつに戻り、分かれねばならないことはわかっていたが、離れがたい気持ちがかれらを寄り添わせていた。だが、やがてかれらは立ち上がり、星々の下で長いこと見つめあっていた。互いに言うべき言葉を捜しあぐねて。

 風は泉の水面に円い波紋を描き、それが何度か足元へ流れ着いた時に、フィリエルは次の逢瀬の時を尋ねた。
「変わらぬうちに」エイセルロスは言った。「わたしはヴァンヤールですから」
 フィリエルにはその意味は図りかねた。
「殿、わたくしはリンダールです。変わるのは常のこと」
 けれどエイセルロスは重ねて言った。
「それでも、変わらぬうちにお会いすることになりましょう」