愛し子

「……あの、ネルヤフィンウェさまはご一緒ではないので…?」
 ぎょっとしたように目を見開いて問う門番たちに、フェアノールは眉をひそめた。
「いや」

 

 ティリオンのフェアノールの館、通称“離宮”は、広さに似合わず極端に人手が少ない。門番ふたり。通いの料理人ひとり。館の主――数年前から主一家になった――が滞在中は、その3人だけである。不在中はどうだか分からないのだが、主は少なくともその3人以外を見かけたことはない。
 3日前、フェアノールはティリオンにやって来た。帰還というには、都はあまりにもフェアノールにとって感慨のないものでしかなかった。感慨、執着、そのように強い感情を呼び起こすものは彼にとって父ただひとりしかなかった。そう思っていた。
 フェアノールは今朝早く、館を出かけた。彼には良くあることで、休むことを知らない魂の燃えたつままに、どこへでも出かけていく。それはティリオンにあっても同じことだった。
 否、ティリオンにあってはそれはいっそう酷くなるのかもしれなかった。フェアノールはひとりであることを望んだ。成人する頃には近しい心を持つ恋人を得、数年前には子をも得たのに、ティリオンに来るといつも――フェアノールはどこかへ行ってしまいたくなる。どこか遠くへ。

 ネアダネルが実家にしばらくいると言うので、ティリオンには父子ふたりで入った。短い旅の間中(この父子にとっては初めてのふたりきりの時間だったのだが)こどもはフェアノールと良く似た色の瞳をきらきらさせて、後ろを付いてきた。

 ティリオンに着いて1日目、こどもは、父を放ったらかして広い“離宮”を駆け回り、自分の領土を認識したようだった。あちこちに潜り込んでいるのを見かけはしたが、食事の時以外には面と向かって会わず――それでも、眠る時にはフェアノールの隣に潜り込んで、ふくふくと笑って擦り寄って来た。フェアノールは、近頃大分ぎこちなさの取れてきた手つきでこどもの髪を撫ぜると、寝付くのを待って自分も目を閉じた。

 2日目、先に目覚めたのはこどもの方だった。眠る父を無邪気に豪快に突付きまわして目覚めさせ、その日は1日後ろをひっついて回った。昨日の埋め合わせのようにこどもは良く喋り、フェアノールも真面目に返した。傍から見ればなんとも奇妙でありながら微笑ましい光景だった。

 3日目、紙とインクの作業にいそしむフェアノールの傍らで、こどもは父の書き損じを山に折ったり谷に折ったりと忙しくしていた。フェアノールほど動かないわけではなく、ちょろちょろと出入りを繰り返していたのだが、食事分には父が呼ぶ前に戻ってきて、横でじっと作業を見ていた。目が合うと何とも嬉しそうに笑うので、なんとなくどぎまぎしたフェアノールがあまり見ないようにしていたなどとは――勿論、知るよしもない。

 そして、今日。フェアノールは早くに(通いの彼らがやって来るよりずっと前に)館を出た。出た時はもちろん隣でぐっすり眠っていたのを覚えているが、今は――いない。らしい。
 こどもの姿は小さい。家具の陰や思いも寄らぬ所に潜り込んでいないとも限らない。名を呼びながらぐるりぐるりと館中を3周して、フェアノールは溜息をついた。
「……おらぬのか」

「王宮に行く」
 門番たちに言い置いて、フェアノールは裏門の方から館を出た。
 外から見ているとほとんど全くわからないのだが、“離宮”は王宮と繋がっている。裏門を出るすぐ前にひっそりとある階段を登ると、王宮の奥庭の回廊に続く通路に出る。階段への入り口が大人からは見えにくい低い位置にあるのだが、こどもの目線ではいかにも気になる道であっただろう。
 王宮に入る1歩手前で、フェアノールはしゃがみこんだ。低い低い目線で、じっと王宮を見た。こどもはどんな目でこれを見ただろう。

 さざめく大人の話し声。片方は、聞き違えようのない父の声。
 もう片方も馴染み深いものだったが、会話の内容を聞くより先に体が室に入った。
「フェアナーロ」
「クルフィンウェさま」
 呼びかけてきた大人ふたりはそれぞれ、膝にこどもを抱いている。片方は金髪。片方は茶髪。手放しの泣き顔と、少し青ざめた無表情と。フェアノールは内心、動揺した。状況がさっぱり分からない。
 瞬く、その間に立ち竦んだ脚に、何かがぶつかる。視線を下げれば見慣れた茶色い頭が目に入り、フェアノールは手を伸ばしてそれを撫ぜる。
「――これは」
 誰に言うともなく言って、答えを求めて視線を彷徨わせる。金髪の弟殿はまだしゃくり上げていて、それを抱く父は困ったような微笑みを返すだけ。こどもに膝から逃げられたヴァンヤの伝令使は、琥珀色の目を小さく笑ませて言った。
「廊下で、大喧嘩をしてましてね」
「王宮の?……なぜ」
「理由はわかりませんけど――」
 フェアノールは脚にしがみついている小さなぬくもりを見下ろす。
「ネルヨ。言いたいことがあるなら申せ」
 いやいやと首を振るこどもを屈みこんで抱き上げ、背中を軽く撫ぜた。頬を掠めて首にかじりつく手から、髪から、ほのかに香る甘さ。自然と笑みが浮かんでいた。
「泣いていては分からぬ…」
 立ち上がると、揺れた体が強張る。いっそう強くしがみついて、小さな小さな声が「ないてません」と言った。けれど呼吸が大きく乱れている。震える背中を撫でさすり、髪を梳く。小さな頭に当てるように首をかしげると、ふと、濡れた頬の弟殿と目が合った。――思う間もなく、言葉がすべり出た。
「ネルヨが迷惑をかけたな。許せ」
 弟殿がひくりと息を飲み込む。見開いた目からはもう涙は零れていない。彼を抱いていたフィンウェがくすりと笑う。フェアノールは憮然とする。何かおかしいことでもしただろうか?
 肩を掴む小さな手に力がこもったのに気づいて、フェアノールは一礼した。
「父上、また後で改めて伺います」
今度は皆でおいで、との声を背にフェアノールは歩む。肩口でこどもがそろりと顔を上げている。

 王宮を駆けるように抜けて、“離宮”へ戻る。こどもを下ろして顔を合わせれば、涙は零れていなかった――まだ。決壊寸前だが、きゅうっと唇を噛みしめてこらえている。
「…………」
 フェアノールは黙り込んだ。いや。いや、いや、ここで――笑ってはいけない。涙をこらえるあまり少し面白い顔になってるなどと……
 ああ、そうだ。父上ならともかく、私では、こういう状況でこの子の前で、噴き出すわけにはいかない。
 笑いをこらえたせいで、フェアノールは見事な仏頂面になった。
「………捜したぞ」
 そんな顔で言うものだから、こどもはすっかり縮み上がった。
「……ごめん、なさい」
 俯いて、消え入りそうな声で言う。フェアノールは慌てた。こどもの隣に腰掛けて、なだめるように肩を軽く叩く。
「――、謝らずとも良い。それで、どうしたのだ」
 こどもは弾かれたように顔を上げた。今にも零れそうな瞳で、叫ぶように言った。
「ちちうえは、わたしのかみは、おきらいですか」
 フェアノールは、ぱちりと大きく瞬きをする。
「…そなたの髪?なぜ?」
 片手にすっぽり納まりそうな頭を撫でて、つとめて穏やかな声を出した。こどもはまたきゅっと唇を引き結んでいたが、小さな声で言った。
「……ちちうえにも、ははうえにも…、にてなくて…、こんな、さえないっ……から…」
 言葉と同時についに涙が零れ落ちる。こどもは涙を追うように俯いた。
 フェアノールは深く息をついた。視線の先で小さな身がびくっと震えた。
「茶は――」
 抱き込んで、引き寄せる。小さく柔らかな感触に半ば怯えを抱いて、……フェアノールは続けた。
「土の色ぞ。木の色ぞ。自然の恵みを表す見事な色だと思うぞ」
 抱き寄せた手に滴が降る。熱くて冷たいかなしい気持ち。
「――それに心配せずとも、そなたがもう少し大きくなれば、母上やマハタン祖父さまのような鮮やかな赤銅になろう」
 似ていない、とこどもは言った。
「大地のような、炎のような、美しく燃えたつ赤をそなたは身に纏うだろう。何を嘆く」
 ……そのことに泣くことができる存在が、何故だかたまらなく愛しく思えた。膝の上で俯いた頭にひとつ、口づけをする。
「マイティモ」
 呼ぶ。
 こどもはゆっくりと顔を上げた。父と子の、同じ鋼の色がまっすぐに交わる。
「顔を上げていよ。そなたはこのフェアナーロの息子。わが愛しき誇りぞ」
 フェアノールの目の前で、こどもは息を飲み、ひとつ瞬きをした。
「―――はい」

「泣くな。もう泣くな……母上が恋しいなら、すぐに呼び戻してやるゆえに…」
 毅然とした一瞬が嘘のように、今度はわあわあと大声で泣き出したこどもに言いながら、自身ひどくネアダネルの顔を見たいことに気がついた。くらくらと頭の端を様々なものが掠めていく。銀の雫、光を吸った漆黒、冴えた瞳、金の輝き、躍る炎、灰の音、静かな緑の原――
「ちちうえ、だいすきです」
 耳朶を打った声はくぐもったこどものもの。
 フェアノールは眩暈がしたような気がして、1度固く目を閉じた。
「――ああ、私もそなたが好きだ」
 言葉は奇妙にすべてに馴染んだ。
 どこにいてもいつも、……フェアノールはふとした拍子にどこかへ行きたくなる。どこか遠くへ。それでもこの小さなぬくもりを好きだと、その言葉が馴染むうちは留まれるかもしれないと思った。