宝玉女王の物語2(おとぎ話調タル=ミーリエルの話)

 それから宝玉姫は、泣きもせず、笑いもしなくなりました。それでも生来の美貌は年を追うごとに増すばかりでした。姫は全身をすっぽり覆うような服を身に纏い始めました。姫を遠くから見た時、その姿は王宮に寄り添い立つ塔のように、朝日に向かう船の帆柱のように、まっすぐに天に伸びて見えるのでした。
 黄金公子と会うことはありませんでした。王宮でも、街でも、公子の生家であるはずの南の森でもそうでした。宝玉姫は、黄金公子が海を越えた東の大陸へ行ったと聞きました。姫の国の船主たちはこぞって大陸へ出かけて行って、武功を挙げたり、財宝を持ち帰ったりするのでした。
 大公はもはや姫の前では獣の姿を隠さなくなりました。姫が南の森まで来ると、姫を捕らえて散々にいじめるのです。けれど姫は一粒の涙も溢しませんでした。大公は獣の姿で噛みつき、引き裂き、姫の傷が癒えるまではもてなすふりをして食事に毒を入れました。そうして傷と毒に苛まれる宝玉姫を嘲笑うのです。
 母である王妃もこと大公のことについては味方になってはくれませんでした。王妃は姫が何を言っているのかわからないふりをするのです。そればかりか、夫である王に毒を盛りさえしました。宝玉姫は母の裏切りに悶えました。そして長い間、南の森を避けることは出来なくなりました。姫はたいそう父王を愛していたのです。
 大公は姫の角を大事に持っておりました。けれども角の輝きは年毎に薄れ、姫が毒を食べ始めるといっそう暗い色に変わって行きました。
 宝玉姫は笑うことを忘れてしまったわけではありません。父王の前では何度か微笑もうとしました。けれど心にかかることが晴れない霧のように重すぎて、どうしても唇に微笑みは留まらないのでした。そのことが王を苦しめていることは知っていました。父子は違う苦しみにより同じ悲しみのヴェールを被っていました。
 そのような年月がどれだけ続いたでしょうか、ある奇妙な天候の年に、王妃が亡くなりました。王の嘆きはとても深いものでした。その傍らで喪に服しながら宝玉姫は、少しも悲しみがやってこないことに戸惑っていました。母を失ったことには何も思わず、ただ父の嘆きを哀れに思うばかりでした。
 共犯者がいなくなり、大公はより凶暴になりました。姫への虐待は凄まじく、ほとんど拷問と言えるような時もありました。宝玉姫は父王と共に聖なる山の頂上で神に祈るのを習慣としていましたが、その祈りの最中にふと、大公がいなくなることを望んでいることもありました。祈りよりも強くそのことを考えてしまうのです。
 やがて王妃の喪が明けると、王は宝玉姫の夫を探し始めました。
「お前を笑わせられる男が良い」と王は言いました。「西の山の領主の弟はどうじゃ?」
 宝玉姫も心の憂いを晴らしてくれる者がいれば良いと思いました。
「それなら、皆の前で私を笑わせた者と結婚しましょう」と宝玉姫は答えました。「けれど父上、これ一度きりですよ」

 王は次の新年の祭の時に、宝玉姫の夫を決める催しを行うとおふれを出しました。島中はもちろん、東の大陸へもです。
 東の大陸の北側には、妖精たちが住んでいました。もちろん西の果ての神の国にも住んでいるのですが、東の大陸にいるのは姫とは直接の血縁にあたる妖精でした。宝玉姫の先祖は妖精と人間の間に生まれた子でした。王家の人々には妖精の血が流れているのです。ところが姫の祖父や曾祖父の代の王たちは妖精との交渉を嫌い、東の大陸へ出かけても北側には滅多に行かず、南側ばかりにその勢力を伸ばしておりました。
 東の大陸の南側の人達は、島の人々とは全く違った異相でした。新年の催しに向けて、島の貴族たちが東の大陸から続々と戻ってきたのですが、その中にはその風変わりな一族の者たちも大勢いました。
 さてそんな変わった者たちも含め、宝玉姫の夫選びは始まりました。ありとあらゆる者が来ました。ありとあらゆることが起こりました。王は時に微笑ましく、時に腹のよじれるほど笑いましたが、姫の心にはそよ風ほどのゆらぎも起こさないのでした。そのことが心苦しく、ますます微笑みの一片も浮かばず、宝玉姫はほとほと困り果てておりました。
 どうやら最後の挑戦者が退いてしまう頃には、王ですら胸苦しい思いでいっぱいでした。王には姫に無用の苦しみを強いてしまったように思えたのです。姫は黙って頭をゆっくり振りました。そして密かに溜め息をついて、立ち上がろうとした時です。
 大広間の扉が突然開き、残照の空を背にしてその男が入ってきました。
 男は見たところ千色の毛皮を持つ獣に見えました。爪先から首まで少しずつ何もかも違う毛皮に覆われ、ほんの少し覗いた肌は黒檀のように黒く、頭を覆うのは羽毛と翼でした。天を指す鳥の枝垂れ尾が二本、耳の後ろから優雅に伸びており、顔には鳥の嘴のような仮面をつけていました。
 大広間の群衆はざわめきました。男の後から慌てたように入って来たのは船を幾つも持った大商人の息子でした。男はつかつかと歩みを進め、座り直した宝玉姫の前で立ち止まりました。
 姫は鳥の仮面の奥の目を、はっきりと見たように思いました。
 追いついて来た大商人の息子が曖昧に微笑みながら、男は非常な勇士で、この毛皮も自分で仕留めた獲物のものだと語っている間も、姫は男の隠された目を見つめていました。それは何か懐かしい光を帯びている気がしたのです。
 この世のありとあらゆる獣を仕留めたという話になった時、宝玉姫は男に声を掛けました。
「おまえはいつこの島へ来たの?」
 男は、深い溜め息のような声で返しました。
「姫よ、昨日の夜更けでした」
「南の森へは行った?」
「ええ、姫よ。黒い獣を見ました」
「その獣の毛皮はどれ?」
 男は仮面の奥で低く笑ったようでした。
「わたくしの見た獣は、毛皮よりも尾が目立つのです。このように」
 そして男は突然、とがった切っ先のような、黒い真珠の輝きのような、長い長い尻尾を出して見せたのです。
 広間はざわめきました。男の隣で商人の息子はひきつった悲鳴を上げました。王は青ざめて立ち上がりました。男は平然と尻尾を揺らしてみせました。
 そこに、澄んだ響きの笑い声が上がりました。
 群衆も、王も、すべての者が宝玉姫を見ました。姫は鈴を振るような軽やかな笑い声を上げておりました。王は茫然と姫を見て、獣のような男を見ました。それから恐る恐る問いかけました。
「姫よ、お前の夫が決まったということかな」
 宝玉姫は笑いを納めて答えました。
「ええ、父上。私の夫は決まりました。けれど父上、わたしは結婚は致しません」
 宝玉姫が座を離れると、男は跪きました。姫は男に近づくと、手を伸ばして男の仮面を奪いました。たちまち男の尻尾は消え去り、男は羽毛と翼を剥ぐように落として立ち上がりました。群衆はあっと声を上げました。そこにいたのは誰あろう、黄金公子でした。
 宝玉姫はこの上なく美しくほほえみました。
「おかえりなさい、いとこどの」
 黄金公子は黙ったまま深く身を折り曲げて、ほんのかすかに宝玉姫の差しのべた指先に口づけました。
 王は久しく見なかった甥をかすかな困惑と共に見つめました。王族であれ、そうでなかれ、いとこ同士で結婚することはありえませんでした。人々はそうしたことはなく、思ったこともありませんでした。とはいえ、島の王族は出来るだけ親族と結婚するようにはしておりました。先祖から受け継いだ妖精の血を薄めたくなかったからです。黄金公子がこんなに近い親族でなければ、当然、宝玉姫との結婚の話も出たでしょう。王は軽い溜め息をつくと、黄金公子に急な帰還の理由を問いました。
 黄金公子は大公が死んだと告げました。皆驚き慌て、宝玉姫は青ざめました。宴はその場でお開きになりました。

 黄金公子は大公位を継ぎ、南の森の領主となりました。けれど目立って変わったことは何一つありませんでした。南の森には黒い獣が現れ、相変わらず閉ざされておりました。
 宝玉姫は空虚な気持ちで日々を過ごしていました。笑うことは思い出しましたが、やはり心動かされることは少なかったのです。
 それからほどなくして、王は病の床につきました。王は自分がまもなく死ぬだろうことがわかっていました。気がかりは宝玉姫の行く末以外にありませんでした。美しく賢い姫は王国を正しく治めるでしょう。けれどその時に姫を守り助けてくれるのはいったい誰なのでしょう。王にはわかりませんでした。けれど宝玉姫は、そんな父王を宥めてこう言いました。
「なるようにしかなりません、父上。神様はすべてご存知です」
 王は姫を案じながら死の眠りにつきました。
 宝玉姫は、やはり虚ろな心の中で、父王の死を悲しみました。
 王の亡くなったその日の夜のことです。宝玉姫の部屋の扉が、不思議な音を立てました。姫は呼びかけました。
「誰です、わたしの部屋の扉を叩くのは?」
「私です、あなたの夫です」
「長い尾はあるの?」
「ありますとも!」
 宝玉姫は扉を開き、黄金公を迎え入れました。黄金公は両手で何かを捧げ持っていました。
「いとこどのの御用は何?」
「姫、あなたのものを返しに参りました」
 言うと、黄金公はぱっと両手を開きました。するとそこには、まるで暗い夜のようなマントの小さな切れ端と、満天の星空のような細かなきらめきを散りばめた、角がありました。宝玉姫は息を飲みました。それから、何故この角が姫のものだと言うのか尋ねました。黄金公は重々しい声で言いました。
「姫、南の森の獣は私なのです」
 宝玉姫は声を立てて笑いました。
「わたしの恐れる獣は尾が短いの」
「それでも姫、南の森の獣は私なのです。少なくともマントは私が手に入れたもの。今あなたにお返しします」
 姫は遠い昔の、あの船の上の出来事を思い出しました。
「姫、あなたに触れるのをお許し頂けましょうか!」
 宝玉姫は頷きました。黄金公は角とマントの切れ端を姫に持たせ、その上から手を握りました。
「姫、あなたの獣に褒美をください」
 宝玉姫は角を強く握りました。けれども力は少しも感じられず、姫は自分が変身できないと悟りました。涙があふれました。黄金公がおそるおそる姫に触れ、涙を拭いました。
「おまえの望みは何?」
「姫よ、私と結婚してください」
「大それた望みだとは思わないの、いとこどの?」
「姫よ、けれどあなたの夫たる資格を勝ち得たのは私です」
「どうして結婚したいの?」
「姫よ、あなたを愛しているから!」
 宝玉姫は涙を流し続けました。黄金公はつたない指で涙を拭い続けました。そしてその夜が過ぎ、ふたりは賭けをすることにしたのです。

 群衆は宝玉女王を待っていました。けれど島の民に与えられたのは黄金王の即位宣言でした。続けて宝玉姫との結婚が告げられると、群衆はざわめき、王の会議は紛糾しました。長い議論が続き、様々な意見が飛び交いました。しかし最後には黄金王は宝玉王妃を手にいれました。
 黄金王は会議に書記官を伴って来ました。書記官はまだ少年と呼べるほどの年頃でしたが、たいそう賢く、乱れた会議を見事に纏めあげてみせました。書記官は王の葉と名乗りました。長い前髪でほとんど顔の隠れたこの少年を、西の山の領主は怪しみましたが、王の葉の意見も舵取りも実に真っ当でした。それでも西の山の領主は密かに少年を見張っておこうと決意しました。
 初めての会議の後、黄金王と王の葉はそっと視線を見交わして微笑みました。王の葉こそ、宝玉姫の仮の姿だったのです。ふたりの賭けはこうして始まったのでした。