架空の確信

【夢】

 荒野を、歩いている。
 たったひとりで歩いている。なぜ誰もいないのだろう。
 頭上で雷光が閃く。その紫にひどく満たされる。
 見上げれば、雷を抱えた雲の狭間に、まばゆく輝くひとつの星と、その星明かりの深い深い青い空が見える。
 また雷光が閃く。
「敵でも、友でも、」
 ふと、言葉が口をついて出る。
「穢れをもたらす者でも、聖い者でも、闇の眷属でも、」
 これは誓言の句だった。そして、違った。
「ヴァラでも、マイアでも、我らエルダールでも、後に来る人の子であっても、―――」
 雷光があまりにうつくしい紫で、星の青があまりにお前を思い出させて、
「……法や、情や、誓いや、どんな困難が阻んでも」
 たったひとりで荒野を歩いている。飢えている。雷光が私を満たす。
「私は」
 立ち止まる。
「お前を」

 雷を浴びながら歩いている。やがて重苦しく垂れ込めた雲から滴が落ちる。雨にさらされながらなおも歩んだ。どこへ。それは分からなかった。

【秘密】

「母上、娘が欲しいとか思ったことはありませんか?」
 久しぶりに立ち寄ったティリオンで、ひとり息子は食事の後、傍に侍りながらそう言った。侍るとしか言い様のないしなだれ方で、寛いだ空間にはそぐっていたけれど、ネアダネルは不思議なものを見るような目つきで息子を見返した。マエズロスは、大きくひとつ瞬きをすると、はにかむように理由を付け足した。
「アナイレが、娘が欲しいわって言ってたもので」
 娘が欲しいわ。あの子の言い方なら想像がつく。きっと無邪気に、けれどきっぱりと宣言したことだろう。ネアダネルは手を伸ばして、ゆっくりと息子の髪を撫ぜた。
「あら。あなたがいるのにどうして娘が欲しいの?」
「…………は」
 間の抜けた声を洩らして、息子は一瞬びくりと硬直した。口をつぐんで、また開けて、おそるおそるといった具合にネアダネルの方を見る。
「母上、私は男ですけど…」
「わかってるわ。でもあなた美人だし、思考回路は乙女だし、なんか娘ですって言っても通用しそうなのよね」
「おとめ…」
「自覚ないの?アナイレとの会話とか、仲の良い姉妹みたいよ」
「おとめ…」
 衝撃的だったのか、同じ言葉ばかり繰り返すマエズロスの頭を、小さな子にするように撫ぜると、ネアダネルはすこし首をかしげた。
「…娘なら、フェアノールの方が欲しいかもしれないわね。何せ未知の世界だから」
 手の下で、深くひかる赤を燃え立たせるような頭も、母と同じようにすこしかしいだ。暫しの沈黙が落ちる。
「それじゃあその…今後、その、仲良くする予定とかは」
「私はあるけど」
 ネアダネルは笑みを零す。見上げてくる息子の瞳をとらえて、そのまま歌うように続けた。
「近いうちには、そうね、どうかしらね。そろそろあのひとが“おとずれ”そうなものだけど」
 ここで極上の微笑みをひとつ。
「会えなくて、痺れを切らして殿方と楽しくしてるかしら?」
 夫と似たような薄い色の瞳がぱちりと固まった。ネアダネルは目を逸らさなかった。微笑みもそのままだ。マエズロスは再びの沈黙の後、何かひっかかりを吐き出すように言った。
「それって、浮気とか言ったりしないんですか」
「浮気じゃないわね。むしろ操立てよ」
「みさお…」
 って何だっけ、などと言い出しそうな顔をしている、とネアダネルは思った。いじめすぎたかしら?しかしマエズロスの両親は、残念ながら両親の世代にしては実に特殊すぎるほど開けっぴろげな恋愛観の持ち主達であるのだ。
 敢えて、声を潜めて尋ねる。
「フェアノールが私が身ごもっている時に“おとずれ”たくなったらどうしてるか知らないの?」
「………どうしてるんです?」
「あのひと、殿方を抱くのよ。ヘンな操立てよね。でも女性は私だけ」
 それは操立てと言うのか否か。そんな疑問がマエズロスの中に渦巻きだしたようだった。答えなんか出ないもので悩むのは若い証拠ね、と母は何故だかご満悦だ。
「そうね」
 そしてネアダネルは悪戯を企むような妙な笑い方をして、優しい声音で言った。
「殿方のアレは、たぶん女の子のおしゃべりとか、秘密とか、そういうものと一緒なのよ」
 マエズロスは妙な顔をして黙っていた。そういえばこの子の恋はどうなのかしら。ネアダネルは考える。この息子が娘のような気がするのは、多分に思考回路が原因だけれど、“殿方のアレ”を感じない――まるで未分化の柔らかい優しげないきもののような浮遊感を、こと性の分野で発揮しているからかもしれなかった。
 だからネアダネルは愛しい子の頭をもう一度撫ぜ、呟いた。
「あなたはどうかしらね」

 以来、その方面の話を母と息子はしていない。

【大前提】

 マエズロスは、高嶺の花だ。
 ふつう殿方には使わないその表現がこれほどまでに似合ってしまう世間の評価を持っているひとを、アナイレは他に知らない。彼女自身、世間の評価を鑑みるに充分に高嶺の花であったのだが、今や王家の妻に納まりかえった身としては、そんなことは「あらそうなの?」の一言で片付いてしまう。問題は――今現在、進行形で「高嶺の花」な方だった。
 そもそもの始めからして、マエズロスは恋愛下手だった。と言ってしまっては彼が可哀相なのかもしれない。たぶん真面目すぎるのだ。もって生まれた性質は容易には変えようがない。加えて、生まれも育ちも少々――かなり――大分、特殊だったために、もって生まれたありとあらゆる美点の数々が意味をなくしたようでもある。
 マエズロスの血筋の良さは申し分がない。申し分が無さ過ぎて、つけこむ隙がない。王家の直系長子というノルドールでもっとも重んじられる立場であり、外見も性格も能力も、文句のつけようがない整い方である。彼に憧れる娘たちは後をたたず、……それでも結婚には至らない、どころかお付き合いのひとつも起きない理由は、ひとえに、マエズロスの父親の存在にあった。
 いや、そうとばかりは言い切れないのかもしれない。マエズロスの父親が「彼」であることと同じくらいに、やはり良すぎる生まれというのは問題なのであった。ノルドールであれば誰でも、フィンウェ王を盲目的に信頼していた。その王の、直系の血筋を継がす母となる?考えるだけで畏れ多いと――思う娘は数え知れず。
 加えて、マエズロスに惚れる娘たちは総じて、おとなしやかな性質の持ち主だった。そしてマエズロスは、致命的にそちらの感情の機微に疎かった。
 気づくはずがない。
 アナイレは常々思っていた。マエズロスと恋仲になりたかったら、押して押して押しまくって押し倒すしか手がないんじゃないかしら。それをもうひとりの幼なじみにして義弟のフィナルフィンに話したら、彼は盛大に溜息をついて言った。
「君には言われたくないと思うよ」
「失礼なこと言わないで頂戴。あたくしはちゃんと気づいたわ」
「……………まあ、兄上には君が押して押して押したのかもね」
 フィナルフィンの溜息にはいろいろ含まれているものがあった。恋仲になりたかったら押せ。それはむしろアナイレの恋愛観な気がする。…アナイレは、マエズロスとは恋仲になりたくなかったのだろう。マエズロスは、アナイレと恋仲には――?あまりに微妙すぎる問題で、実際このふたりは今だってハタから見ていれば実に微妙な関係だ。
 ふたりの関係がどうあれ、今、アナイレは高嶺の花というか正しく人妻で、マエズロスは見事に高嶺の花だ。
 押して押して押しまくって押し倒すくらい直球な娘…無理だな、とフィナルフィンは結論づけた。そんなのは多分、王家からしか出まい。そして、親族間の結婚には唯一、厳しすぎるほど厳密な決まりがある。
「夢の上、一生独身かもね…」
 フィナルフィンが呟くと、あら、とアナイレは笑った。
「恋仲と結婚は違うのよ、フィナルフィン」

【初対面】

 愛しい食欲というものがあるとすればそれはこれだという妙な確信を持ちながらマエズロスは微笑んだ、というのが本人の主観としての回想で、その場に居合わせた「愛しい食欲」の対象者を産んだ母親であり彼の幼なじみであるアナイレからすれば、その時のマエズロスにかける言葉はひとつしかなかった。
「夢の上、あなた弟いたわよね」
「いるよ」
「二人目の弟は、あなたが取り上げたって言ってたわよね」
「不可抗力だったけどね、そうだよ」
「なら泣くのやめて頂戴」
「え、泣いてる?」
「泣いてるわよ盛大に。あたくしの拙い想像力で一番しっくりくる言葉を探すなら、初めてのこどもに喜び感動して大泣きする父親の表情で」
 殿が拗ねるわ。
 まだ父からの名も母からの名も与えられていない赤子を抱いて、泣きながら微笑っていた幼なじみを、アナイレは生涯忘れない。
 忘れられない。

 けれど同時にもうひとつ、涙を納めてからの暫しの談笑で、彼が言い出したことも忘れない。
「アナイレ、この子ちょっと……舐めてもいい?」
「――――え?」
「なんかすごく、…美味しそう」
 アナイレは幼なじみの顔をじっと見つめ、傍らの小さな寝台の赤子をじっと見つめ、それから溜息と共に言葉を返した。
「……なんかすごく、倒錯的な気分がするから、止めて頂戴」
「ちえ」
 マエズロスは軽く口をとがらせて、それから赤子を抱き上げて、たまらないというように頬に頬を触れさせた。
 
 まあ、本当はいいのだけれど。彼が幸せなら。

【戯言】

 宴の席だった。
 今から思えば――酔っていた。

 特にいつまでと決まった宴ではない。だからちらほらと人数が減っているのは当たり前のことで、珍しいと言えば祖父の所に父がいなかった。中座したらしい。……それとも上の叔父の姿もないのだから、どこぞで絶妙な仲の良さでも披露しているのだろうか。
 フィナルフィンが目の前で僕が果実を齧るのをじっと見ていて、にやにやと笑っている。その顔やめろよ。
「………何か御用でしょうかフィナルフィン叔父上」
「美味しそうなものを食べているにしては不満そうな顔だと思ってね」
 でも君の食べ方ってきっぱり言うとそそるよね。ごくごく小さく囁かれたことに、素早く周囲に視線を走らせた。誰も見ていない聞いてない。よし。
「痛て」
「きっぱり言うな」
「事実だし?」
 また茘枝をぶつけてやった。投げるなよー、と幼なじみ殿はぼやいた。
「……そそるって何が」
 遠くの弟と従弟の塊を横目で眺めながら聞き返す。フィナルフィンは凶器の茘枝をせっせと剥いている。
「ん、色っぽいってこと」
「食べてるのが?」
「食べてるのが」
 僕はなんとなく眩暈を覚えて目をつぶる。ああ、でもちょうど良い。誰かの意見は聞いてみたかった。
「食欲って、なんだと思う」
「え?」
「食べたいって気持ち」
「――――誰か食べたい、の?」
 僕は黙ってまた茘枝を投げた。もう1回投げた。ついでにもう1つ投げた。全部命中した。
「うう、図星攻撃…」
「つまり君にとっては食欲と性欲が一致するってこと?」
 もう1つ投げられるように手に取って聞いてみた。別に怒ったわけじゃない。ただ無性にむしゃくしゃしただけだ。
「それってイコールじゃないの?もとから」
「元から?」
「だって寝たいって言うし食いたいって言うじゃん。なんか昔から」
「…………単なる表現上の含みでなくて?」
「さあ、どっちかは分からないけどさ」
 フィナルフィンはそう言うと、僕の手から茘枝を取って、剥いた。
「ぐるぐる悩むんだったら、聞けば」
「?……誰に」
「そりゃ……氏族一の賢者に?」
 は、と開いた僕の口にフィナルフィンは茘枝を押し込んだ。甘い。
「そんな悩みなんか一刀両断ばっさり解決じゃないの?」
 顎で示した先には、本当に珍しく少し酔った様子でぼんやりひとりで宙を眺めている祖父の姿があって。僕がごくりと茘枝を飲み下したと同時に、どうやら僕の腹も決まってしまったらしい。
 いや待てそんな質問して良いのか!?――と、確か思った気がする。
 だって相手はあのおじいさまだぞ!――と、心の中で僕のその頃大分なけなしになっていた理性とかいうのが叫んでいた気がする。
 しかし僕は立ち上がり、歩き、祖父の傍らに腰を下ろして、聞いた。
「おじいさま。私は最近フィンゴンを見ていると食べたくなってきて仕方ないのですが、どうしたら良いでしょう」
 
 ………………フィナルフィンが、君それさっきの質問と違うよ!という顔をした。

【記憶】

 押して押して押しまくって押し倒す、というのは、図らずもそう言ったアナイレの息子が実践することになった。フィンゴンには、アナイレからそんなことを聞いた覚えはない。彼はただどちらかというと本能じみた衝動のままに、花畑でマエズロスに抱きつき、生まれて初めての愛の告白というものをやらかしたのだ。――随分と直接的だったが。
 「好き」も「大好き」も「愛してる」も言った。百万遍言った。だから今度はこう言っても良いだろうとフィンゴンは思った。
「抱かせてっ!マエズロス」
 言って、飛びついたら、マエズロスはあまりのことにか足を縺れさせて花を舞い散らして倒れこんだ。戸惑っただろう腕が、それでもしっかり傷つけず離さないように体に回されたことに、嬉しさと…ほんの少し、不満を感じた。

「お前、幾つになった」
 花の中で抱き合って倒れたまま、暫しの沈黙があった。それからマエズロスは随分と落ち着いた声で言った。こどもは首をかしげる。すこし速い胸の鼓動が、耳に押し当たる気がする。
「覚えてない」
「まだ数えているべき歳だ。お前が生まれて――そう、19年と7期314日」
 マエズロスは小さく溜息をついた。
「まだ早い」
 マエズロスの胸と腹の上で、暖かいと言うよりもむしろ爆ぜるように熱い、ひとの形をした塊がぶうとむくれた。
「いつならいいの」
「準備が出来てからだ」
「いつ出来るの」
「それが、また難しい問題だ」
 マエズロスはころりと横を向いた。やはりころりと熱の塊は胸と腹の上から転げ落ちて、花にお互い半身を埋めながら、横たわってふたりは向かい合うことになった。
「女には身体の中にひとつの宮があって、成年までにその宮を育てている」
 下に敷いていない右手を伸ばす。こどもの目を掌で覆い、マエズロスはぐっと顔を近づける。囁く――
「そしていつか、その宮に相手を留め、証を残す。女の宮はふたりのためにある。育む宮が」
 掌の下で熱い瞼が震えた気がした。
「―――男に育つ宮などない。だから、男の…宮のようなものは、ひとりきりのためにある」
 掌を外して、閉ざされている瞼を見て、マエズロスは微笑した。
「ああ、まだ早い」
 微笑の消えぬうちに、瞼が開いた。霧のかかった紫。その瞳が、およそこどもに持てる限りの真剣さでマエズロスを見つめていた。
「あんたの宮はおれのもの?」
「どう思う?」
「そう信じてる」
 微笑みが消えうせた。泣き出しそうな瞳をして、マエズロスは呼んだ。
 フィンゴン。
「そうかもしれないな。お前が信じているのなら」
 それきり、沈黙があった。風はそよ吹き光の滴を運ぶ。花が歌うように光に応えて揺れる。花開いたように拡散した影は、ふたつなのかひとつなのかも分からない。
 ゆるゆるとマエズロスは身を起こした。
「……どんな気分だ?」
 遅れて、フィンゴンも身を起こした。すこし潤んだ瞳が不意に伏せられる。
「とろけそう」
「私もだ――」
 そしてまた、沈黙。

【変化】

「おじいさま。私は最近フィンゴンを見ていると食べたくなってきて仕方ないのですが、どうしたら良いでしょう」
 フィンウェはうっそりと宙に飛ばしていた視線をふいと降ろして、マエズロスを見た。その首がわずかにかしぐ。
「食べたいなら食べちゃえば良いんじゃない?」
 ひっく。どこか遠くでしゃっくりの音が聞こえた。マエズロスはフィンウェの隣で同じように首をかしげてみる。
「………良いんですか。というか、良いものなんですか」
「良くないかなぁ」
「いえ、だって…。……私、男ですよ」
「そうだね」
「で、フィンゴンも、男です」
「うん」
「ついでに従弟です」
「うん」
 フィンウェは真面目に頷いている。マエズロスは意味もなく視線を彷徨わせた。しばし、黙る。……そして訊く。
「………あのだから、良いんですか」
 フィンウェは不思議そうにマエズロスを見返した。ん、と小さく頷く。
「別にこどもできるわけじゃないし」
「………………」
「君らが同意なら別に良いよ。おめでとう。むしろ私が口出しするようなことでもないと思うけど」
「……………」
 マエズロスは大分遠い記憶を――秘密を思い出していた。なんだろうこの感じ。この衝撃。ああそうか前に母上となんかこどもの作り方関連のこと色々話した時とそっくりだ。
「好きなんでしょ?」
 いつでも心にすっと入ってくるような響きの声で問われて、マエズロスは心臓が飛び跳ねたのをつくづく感じた。びっくりした。
「……それは、ちょっと、よく、わかりません」
「んー…」
 不満そうに尖らせた唇にちょっと触れてから、フィンウェは座りなおし、初孫にごく真剣な声で尋ねた。
「君が思いを閉じ込めがちなのは、どうしてかな」
「閉じ込めてるわけでは…」
「だって、マエズロス。私は一度だって同性同士で恋をしてはいけないなんて言ってないよ」
「……そうですけど」
「昔から結構あったから、そんなにきつく言われるようなことでもないんじゃないの?そんなことないの?」
 まあ最近はよく分からないけど――、ほんの少し苛立たしげに言われた言葉に、マエズロスは冷静に答えた。
「大っぴらに言うひとはあまりいません」
「それもそうか」
 軽く頷いて、フィンウェはまた唇を尖らせた。
「……でも、不毛じゃない?同性間で恋をしてはイケマセンとか法にするのって」
「まあ、その…そもそも関係性自体が不毛な気がするんですけど」
「不毛?どこが?」
 きょとんと灰色の眸が見開かれる。
「だって、恋だよ?」
 これ以上の真理はないと宣言したいような声だった。マエズロスはたじろいだ。
「………恋ですけど」
 そっと答えると、フィンウェは頷いて、言った。
「だいたい、そんな法をつくったら、真っ先に罰されるのは私だね。私のはじめての恋人は男だったし」
「えっ…」
 マエズロスは驚いた。フィンウェはまだ少し不満の名残が残る唇で、小さく溜息をついた。
「今ここにはいないけど、ね」

 マエズロスがぐるぐると、過去の記憶やら現在の衝撃やらの渦に沈んでいる間に、フィンウェはまた杯になみなみと注いだ何かを案外豪快に飲み干したようだった。
「このひとだ、って」
 目尻にきつめに滲んだ紅に対して、その眸は冴え冴えと青い。
「そういう時が、来る」
 眸の青さのような声は、そう語り始めた。
「このひとだ、と思うのはひとりとは限らないし、そのひとりとずっと一緒にいられるわけでもないけどね、ああ――このひとだな、と思った相手とは、時につれて関係が変化しても、何かとつながっているものだよ」
 マエズロスはぼんやりとフィンウェを見返した。冴えた声は豊かに続けた。
「このひとだ、と思うのには何の障害もない」
 フィンウェはすっと眸を閉じた。その唇が弧を描く。
「年齢も性別も種族も何も、何も問わなくてああ、このひとだ、って思うものだよ」
 このひとだ。マエズロスの中で、知っていたような声が響く。
「そしてね」
 ふうと声音が変化する。眸が開く。
「このひとだ、と思った相手が、私のことをこのひとだ、と思ってくれた場合――」
 蕩けるような声で、けれど激しさを持ってフィンウェは続けた。
「わがひとを見つけた感覚は、絶対に忘れられない」
 これだ、とマエズロスは思った――ああ、そう、本当は、この話が聞きたかった。
「わがひとと一緒にいたいという気持ちは誰にも止められない」
 氏族を導く声が、厳かに告げる。
「敵でも、友でも」
 その言葉は重く響く。
「穢れをもたらす者でも、聖い者でも」
 その言葉は胸に根を張る。
「闇の眷属でも、ヴァラでも、マイアでも、我らエルダールでも、後に来る種族であっても」
 囁きは続く。音楽のように、決して忘れられない響きを紡ぐ。
「―――法や、情や、誓いや、どんな困難が阻んでも、止められない」
「―――ええ」
 呼応するように、諾の言葉が滑り出ていた。そんなマエズロスをじっと見つめ、フィンウェは笑った。 
「外からくるものでは、君の心は動かせない」
「ええ」
「止められるのは君だけ」
 頷いたマエズロスは、あの花に埋もれての問答を思い出していた。あんたの宮はおれのもの?お前がそう信じるのなら……
「君の心の内からあらわれる思いだけ」
 私もそう信じるだろう。

 祖父の頬にくちづけたら、よしよしと頭を撫でられて、額にくちづけを返された。上機嫌で立ち上がれば、心配そうな表情でこちらを見ているフィナルフィンと目が合って。
「そうだった」
 マエズロスはくるりと振り返った。
「おじいさま。食欲って何ですか」
「食べたらさ」
 祖父はうっとりと微笑んで答えた。
「おなかにおさまるよね」

【確信】

 私はお前の「わがひと」に、なれるだろうか。

 あの幸福感に勝る感覚なのだろうか、それは。触れ合うだけのくちづけをした、花に埋もれた問答、その感動を思い出しながら、マエズロスは小さく舌を出して、唇を舐めた。
 次またくちづけをすることがあったら、あの唇に歯を立ててみようと思った。フィンゴンはどうするだろう。狼狽するだろうか。そうしたらどうしよう。お前が食いたいと、その耳に囁いてみようか。
 睦言だと取るだろうか。
 マエズロスは立ち上がった。その一群へ向かって歩く。視線の先で、弟や従弟たちの中で、フィンゴンが顔を輝かせた。ごくりと喉が鳴る。唇を舐める。
 食いたいのだ。――腹におさめてしまいたいのだ。だが――そうはならないだろうという確信がどこかにある。だからこそ愛しい。
 そしてふたりは長いこと、見つめあっていた。木々が生い茂るほどではなかったけれど、ふたり共に確信を育てるくらいの時間。

【本音】

「何々以前と何々以後?」
 自分の人生の最大転機を「○○以前、○○以後」と表すなら何を入れるか?
「決まってる」
 それは大方の予想とは全くかけ離れていて。
「フィンゴン以前、フィンゴン以後」
 マエズロスはけろりとしてそう言った。
 予想していた幼なじみ達は、ひとりは呆れ、ひとりは笑った。