記歌

 覚えられない――、と半泣きでルーミルが叫んだ。
 エレンミーレはむっつりと口をつぐむと、ルーミルを蹴り飛ばして「ボケノルドっ」と罵った。
 蹴り飛ばされたボケノルドがびしょぬれになって噴水から這い上がって来ると、しかしそれでもエレンミーレはそこにいた。普段ならばどこぞに姿を消してしまうのに。
 白きティリオンの都は、今日はとりどりの色を見せて華やいでいる。祝祭の季節なのだ。
 だからこそエレンミーレが苛々しているのをルーミルは知っている。原因のひとつが自分であることも知っている。苛立ちつつも不安で――だから今日は、エレンミーレはルーミルの傍にいる。なんだかんだと言いつつも仲は良いのだ。
 ルーミルが服の裾をぎゅうぎゅう絞っている横で、エレンミーレは奏でる気もなく、竪琴の弦を弾いている。
 エレンミーレとルーミルが一緒にいるのも、それがティリオンの小広場の噴水なのも、そしてヴァンヤがノルドを噴水に叩きこむのも日常茶飯事なので、今さら誰も突っ込もうとはしない。というよりも、周囲を通りかかるヴァンヤにしろノルドにしろ、何が原因でルーミルが噴水に落とされているのか謎なのである。なにせエレンミーレといったら、実に礼儀正しく物腰おだやかで人当たりの良い、とっつきやすいヴァンヤなのだ。彼がなぜルーミルにのみ、まるで人格の変わったかのような振る舞いに出るのかは、ティリオン7不思議のひとつだったりする(他の6つの謎を確認した者はいない)。
 本当のところは、勿論エレンミーレの素はルーミルに対するものである。彼は実にヴァンヤらしく一途に薄情で、彼個人の性格としては快楽主義者でワガママだった。

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 さて今回に限っては、ルーミルが水浴びをするはめになった原因は実にはっきりしていた。

 イングウェの所に行っていたエレンミーレが家に帰ってくると、扉の前に、付き合いもそろそろ長くなってきたノルドがひとり、しょぼくれて座り込んでいた。彼はエレンミーレを見た瞬間、この上なくうろたえた様子で叫んだ――「エレンミーレお願い僕に歌教えて!」と。
 は?と思ったが友人の頼み、エレンミーレは引き受けた。それが間違いだった。
 今は祝祭の季節、そして今日は祝祭の中日。毎回恒例の歌比べが開かれる日だ。参加自由な催しだから、おのおの好きなように自己演出してのりこんでくる。
 ルーミルはそれに出る気だった―――が、気があるだけではどうにもならないのも事実だった。
 ルーミルには、限りなく暗記力というものが欠けていた。
 ついでに音感もあまりない方だったが、この際エレンミーレはそちらには目をつぶることにした。ヴァンヤとしては詞の方が大事なのだ。
 懇切丁寧に繰り返すこと100余回、あちらを覚えればこちらを忘れる、2分弱のたった33語の詞がここまで覚えられないのも珍しい。
 呆れ果て、ふと思いついて、練習の最中に広場を数十度忙しく走りぬけたイングウェの秘蔵っ子伝令使殿をつかまえて歌わせてみたら、詞も旋律もカンペキだった。エレンミーレは泣きたくなった。
 冷静に考えればルーミルが歌えなかろうが失敗しようがエレンミーレには関係がない、はずだった。しかしルーミルが歌比べに出るきっかけが問題だった。曰く、
「お知恵さんが僕の歌聞きたい出てねって言ったんだどーしようエレンミーレ!」
 “お知恵さん”はルーミルの“わが君”、つまりはノルドールの王フィンウェのことである。他の誰かの頼みならムリですって断ってこいと言えたのだが、相手がフィンウェとあってはエレンミーレもそうは言えない。ルーミルにとってのフィンウェが自分にとっての誰であるかを考えたら、「断る」という選択肢は夜の扉の向こうにさよならした。
 しかし、この暗記力の無さは致命的だった。
 「僕覚えてる歌なんてないよ」と言ったルーミルに、エレンミーレは心の底から「それでもクウェンディかこのボケノルド!」と思ったのだが、今や怒りを通り越して悟りの境地に入りかけていた。こーいうのがいたのか、世の中には。
 ティリオンで出会ってからこのかた、数限りなく話してきたが、ここまで暗記力に欠けているとは気づかなかった。ルーミルは論理的思考力も要約力もかなり高いものがあるのである。そりゃ確かに今までだって、エレンミーレに歌って、とお願いする時も題でも歌詞でも旋律でもなく、歌詞の内容の要約で歌を当てていたのだが…それが単に暗記できてなかっただけだとは、普通考えないだろう!?というのがエレンミーレの心境だ。だってルーミルは、人の顔も名前もちゃんと覚えてるし、好きなものや嫌いなこととかだって、しっかり覚えている。なのに、なんで。

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 噴水に蹴りこんでも心は乱れまくったままだったが、ルーミルがふざけているのでも何でもなく、本気で、純粋に、真っ当に、覚えられないというのはハッキリわかったので、……もう少しだけがんばってみようかとエレンミーレは思った。とりあえず、旋律の方はちゃんと覚えたようだった。ヘタだが。
 弦をびんびん弾いてエレンミーレはむっつりと考え込んでいたが、突然立ち上がった。ルーミルがびくっとした。
「仕方ない。この際私はヴァンヤの矜持を捨ててやろう。――だから君が詞を作れ」
「……え?」
「まさか自分で言ったことくらい覚えてるだろう」
 エレンミーレはさっさとルーミルの横に腰掛け直すと、さぁ、と言った。
「ほら作って。旋律は大丈夫なんだから」
 ばららん♪と弦を鳴らした。奏ではじめた。ルーミルは困惑顔のままだったが、言の葉がひとつ、ふたつ、こぼれだした……

 ………2分後。
「……ッ、このっ……!」
 小広場に、本日2度目の水音が響いた。
「もうなんかノルドって言うのも口惜しいな…!どこが博識だ…!博識に詫びろ…!」
 微妙に焦点のズレた怒り方をするエレンミーレに、ルーミルは噴水の中からゴメンナサイ…と謝った。自分で言った言葉すら3秒でルーミルは忘れた。
 どうしてこれで日常生活が送れるのか、というよりもなぜ詞だけがこうまでダメなのか、エレンミーレはそれが不思議でしょうがない。
 また服の裾をぎゅ――っと絞っているルーミルを眺めて、エレンミーレは腹をくくった。
「―――私も一緒に出る」
 へ、と呟いたルーミルに、びし!と指を突きつけて宣言する。
「君は即興で出てくるところだけ歌え。全部合わせてやる」

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「うわあすっごい恋歌」
 隣で楽しそうにはしゃぐフィンウェを横目で眺め、イングウェは頭を抱えたくなった。
 優美な微笑を顔に貼り付け、優雅な一礼をして、相方を引きずりたげにがっしり掴んで退場した伶人が、非常に怒っているのは一目で分かった。それはそうだろう。彼の普段の性格からして、まず歌わないような詞だったのだし。
「……もしかしてルーミルに歌えと言ったのは…」
「あ、うん、私」
「…………そうか……」
 否定してくれれば良いなぁと思ったことをきっぱり肯定されて、イングウェはへこんだ。
 機嫌の悪い時に限って、わざわざエレンミーレはイングウェの所にやって来る。そしてあーだこーだと……嫌だ。考えたくない。
 深い深い溜息をイングウェはついた。

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 そんなこと以来、ルーミルは歌比べに出ていない。「こりごりだ!」と叫んだエレンミーレが、その後全く歌を教えてくれないからだ。ルーミルは他のひとに教わる気なんかこれっぽっちも無いのである。
 しかし、ルーミルだって反省した。さすがに自分でもこの覚えられなさぶりは悲しかった。
 更に、最近エレンミーレが良く歌っている歌がルーミルはとても気に入っていて、けれどしつこく訊いたらまた怒らせてしまうだろうし――
 悩んで悩んで、ある日ちょっとしたひらめきがあって、ルーミルは記号を考えついた。職人が設計図を、完成図を描くように、音を表す記号を決めて、それを書けばいいのだと思ったのだった。

 考えは成功した。
 今、ルーミルは記号をきちんと並べた紙を持って、エレンミーレの竪琴に合わせて上機嫌で歌っている。歌い終わると、にこにこ笑顔のルーミルの手元を覗きこんで、エレンミーレは溜息をついた。
「どうしたの?」
「ルーミル、……君この記号のどれがどの発音を表してるのかは覚えてるんだ?」
 ルーミルはきょとんとした。なんでそんな当たり前のこと訊くんだろう?
「うん」
「そっか。…いや、なんでもない」
 全く不可思議な記憶力の持ち主である。
 エレンミーレはすうと息を吸って、曲を奏で出す。歌う。空に声が解けていく。
 歌詞を嬉々として記すルーミルを見ながら、次の祝祭にはもう1回くらい一緒に歌おうか――とエレンミーレは思った。