わかれるまひる

 こんなことがあった。

 海を見ているのは何となく落ち着かないと言った彼だが、船の上はそう苦手でもないらしい。波に合わせてゆらりゆらりと揺れるのが楽しいようで、かなりはしゃいであちこち動いていた。たとえ海に落ちても、船底をしげしげと見て戻ってくるくらいのことはしそうだった。
 今は杯を合わせながら、前からそうだったようにとりとめもなく話す。
 と思えば、つまみに出した蛸と烏賊の得体の知れなさに心底驚いたらしく、しばらく突っつき回した後、
「ノォウェ殿、これホントに食べ物か?」
などと言ってくれるので、次には海鼠でも出してみようかと思う。
 結局は、私が食べたらすんなり食べている。好奇心の素直さは、おそらく確実に孫に受け継がれている。

 最後の船の奇妙な面々のひとりを思い出してキアダンは微笑した。

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 こんなことがあった。

 リンドンで、「どの髪色がお好き?」という妙な質問が流行ったことがある。選択肢は三つ。金か、銀か、黒か。
「………全部、好きだな」
 そう答えたらお付き合いのある連中が見事に不機嫌になった。選べないのが事実だ。事実だから仕方ないのだが、あんまりしつこく選べと迫ってくるのが多くて、つい投げやりに言ってしまった。
「一番は、匠の赤毛」
 おかげでスランドゥイルには、アマンへ着いた時に深く納得したと言いたげな声音で「あのひとか」と言われた。思い浮かべていた相手であることは否定しない。
 さて言われた彼本人はどうかというと、そんなことがあったと紹介したら、4番目の選択肢としてはいい逃げの一手だ、と笑って、それからちょっぴり不満そうに言ったのだ。
「……なんで“茶色”は無かったんだろう」
 飲みすぎですよと嗜めて去っていった女性が、軽やかな茶色の髪を編み上げていたのを思い出す。

 匠殿は、妻ひとすじだ。

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 こんなことがあった。

 工房では金属と火の匂いを纏わりつかせている彼だが、一旦そこを出ると、殻でも脱いだように金気と火を置いてくる。外で会えば、瞳の色のような苔を思い出す。
「今度、船を造らないか」
 言うと彼は笑う。
「どこへ行くのかな?」
「……エレスセアから離島をめぐるとか…――もしくは空を漕いで星の上に」
 すると彼は優しい目をしてこう言う。
「ほんとうは、俺は、湖へいきたい」
 私は切なくなる。彼はまるで、私と共に最後まであの大地にいたような顔をしている。
「――もう、道はないよ」
「ああ」
「歩いても、走っても、ゆけない」
「…うん」
「まずは、貴男も船を造ってみるといい」
 なんだか悔しくなってそう繰り返すと、彼はそうだねと答えた。
「さて、俺の船になってくれる木と会えるか、どうか」
「木と会う?」
 問うた私に、彼は頷く。
「でも、リンダールには必要のないことだよ」

 キアダンは無性に海に飛び込みたくなる。

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 そんなことがあったのだった。

 今日は外で会った。約束はしていない。本当にばったり会ったのだった。
 大地に転がって目を閉じていた。眠っているのかと思ったら、ぱちりと目を開いて笑った。
「言われたから、今日は木に会いに行こうかと思って」
「木に会う…」
 のに、大地に寝っころがる必要が…いや、あるのだろう、多分。ごろんごろんとまだ転がっている彼の傍にしゃがみこんで、草原の風を感じながら彼方を見晴るかす。
 話に聞いていたものを見ている。聞いていただけのものを、今、見ている。

 彼は、清められた炉のようだ。
 火を抱く土であり、水を支える石だ。

 ふと、そういう思いがよぎって彼を見る。半身を起こして、髪にくっついた草をつまんで、彼が言う。
「ああ、だめだ。あなたといるのにこんなに淋しい」

 遥か地平に彼が見たのは何か、私は知らない。