ウルモが不定形流動体でいるか、雑な人型でいるか、どちらにもヴァラール皆慣れきってしまった頃のことだ。まず会議にすら全然顔を出さないウルモだが、話題には実によくのぼる。姿かたちを持つ前は曖昧だった性格とかそういうものの話をするのが、ヴァラールにも楽しみであったからだ。
そんな中で、ウルモの姿かたちについては頻繁に議論になる。あれは怠慢だとマンウェが拗ね、アウレが好奇心(何せウルモの考えていることはよく分からない)から発言を差し控え、イルモの腰は引け気味である。オロメにしてみれば愉快な不定形流動体である。
あまりに良く話題になるので、本当に珍しくヴァリノール内陸の水辺で出会った時に、こう言ったのだ。
「別のものを真似たらどうだ」
イルーヴァタールの子らをウルモがあまり見ていなかったのは仕方ない。しかし同時に水の性質ゆえだろう、ウルモは見たものを写すのは得手と言える。澄んだ水は姿を映す。映したものをウルモは姿に写せる。
森には触れ合うべきものが沢山あるぞ、と確かそんなことを言った。水の中のものではあまりにイルーヴァタールの子らと親しむには難しいと思ったのだ。
ウルモは返事をせず、オロメも気にはしなかった。
そんなことがあって、そんなことをすっかり忘れた今、オロメの森にはエルダールの幼子が仔犬と共に駆け回っている。こよなく愛で、成長を見守っている幼子は、驚きと喜びをいっぱいに森に見出し、森に溢れさせている。
幼子、ケレゴルムはオロメを見つけると、跳ねまわる鹿のように弾んで飛びついてくる。オロメさま、オロメさま!呼ばう声はまろやかな毛並みのように心地よい。
「どうした」
「みて!きれい」
受け止めてやると、幼子はかたく合わせていた掌を開く。息を弾ませて中を見つめる瞳が夜空を思わせる輝きで、オロメは刹那そちらに見とれる。
はじめてみたの、きれい!との声にはっとオロメは意識をそれに向け、――息を呑んだ。
幼子の掌におさまっていたのは見事に透き通った一枚の葉だ。葉脈はほのかな金を流したように照り輝き、華やかなみどりは滴る露をふくんで姿を留めている。そのみずいろ、みどり、あまりに良く知った色に、オロメは眩暈を感じる。
「す、」
「はあい?」
きょとんと見上げる幼子のあまりの愛らしさに、オロメは言葉をも飲みこんだ。
「す、す……すてきなものを見つけたな」
「おきにいりなの!」
「そうか、それは良かった」
くふふんと満足気に笑った愛で子は葉を離そうとせず、幼子が寝入るまでオロメは心がざわつきっぱなしだった。
やっとのことで仔犬にしがみついたケレゴルムが安らかな寝息をたてはじめると、オロメはその手の中からするりと葉を抜き出す――途端に葉はみずいろを濃くし、膨れ上がり、見慣れた不定形流動体を成した。
「どうして捕まった…!」
押し殺した声でオロメは問い詰めたが、ウルモは全く答えもせずにりゅりゅりゅりゅと森の下生えを舐めるように消え失せた。
おきにいりがなくなったと知って愛で子が泣く未来に思い当り、オロメが青ざめるのは数瞬の後である。
これが、頻々と起こる。
葉だったのは最初の一回だけだったが、この透き通ってきらきらと光るみずいろの虫だの、花だの、ちいさな生き物だのをケレゴルムが持ち帰るたび、オロメは捨ててくるのだ、という言葉を何とか飲み下し、幼子の話を聞く。もちろん透き通った不審物の動向はよくよく見張っている。そうしてケレゴルムの隙を見てその不審物を逃がしてやる。毎度幼子がしょんぼりするのでなんとか宥めるのが日課になってしまいそうだ。
アイヌアだけでいれば時間は関係がない。ウルモはイルーヴァタールの子らをよくよく見守っているが、その時間の流れには頓着しない。そして時折、驚くべき素直さでかつての約束を果たしに来るのだ。
オロメは森にウルモが潜んでいるのに慣れてしまった。
だからその日、頭にたんこぶをこさえた幼子が目にいっぱい涙を湛えているのを見て、腫れて熱を持つたんこぶに、奇しくも違った形の葉に化けていたウルモを押し当ててしまったのだ。
葉は一瞬で溶けて流動体はたんこぶを冷やしたし、ケレゴルムはあまりのことにひくっと息を飲んで涙の引っ込んだ黒い瞳を見開いた。
オロメは思い切りしまったと思ったが、表情に出さないように何とか耐える。
そのまま押し当てた手の下で、熱を吸い取ったウルモはどんどんぬるまっていき、ケレゴルムはだんだんぽかんと口を開けた。
しゅる、とかすかな音がして、なまぬるいみずいろの不定形流動体は幼子の足元にわだかまり、と思えば地面に染みこむように姿を消した。
まだぽかんと口を開けているケレゴルムに微笑みかけると、オロメは目尻の涙を拭ってやった。
「もう泣かぬな」
ケレゴルムは口を閉め。口元を両手で押さえて、生真面目に頷いた。
オロメは眉を下げて笑うと、幼子を抱きあげた。さてでは、お前にこの森を案内して貰うとしよう、言って、光の移り変わる森へ歩み出す。
ケレゴルムはきらきらしたみずいろを探さなくなった。
オロメも探さない。水の王は、もしかするとあの風に揺れる木の葉の一枚になって、同じく揺れているのかもしれなかったが。