砕ける氷に目を取られた、その一瞬にエルフの剣が手から滑り落ちた。
振るわれる重い石の向こう、刃が迫る。
「トーリン!」
突然の衝撃。
氷の上に突き飛ばされ、翻る、金の髪。滴り落ちる黒いもの、あれは。あれは、血?
トーリンは甥の名を叫ぶ。その目の前でまさに氷に最後の亀裂が走る。
敵の顔に驚愕が広がる。刃を突き放し、石を放り投げ、フィーリは静かに1歩引く。氷が揺らぐ。揺らぎ、傾いで、アゾグが氷の下に沈んでいくのをトーリンは見ていた。いや、見てなどいなかった。
そして、崩れ落ちる金の髪。
「フィーリ!」
氷の上を這うように駆けて甥を抱き起こす。背に回した手がぐっしょりと濡れる。
「ご無事で良かった」
「喋るな」
「あなたの盾に、せめて、なりたかった」
フィーリは荒い息で囁いた。
「いくな」
トーリンはすでに冷たい血を感じて喘ぐように甥の名を呼ぶ。
「いくな、フィーリ。故郷へ帰って来たのではないか。お前はいつも私に道を示す。私の先駆け…!」
甥は薄らと微笑んだ。唇の端から血が滴った。
「先駆けと、仰るなら、父祖の天上の館であなたを待ちましょう」
でも、どうか。瞳が彷徨う。トーリンは抱きこむ腕を強くする。
「称うべき王よ、トーリン…」
フィーリの手が氷を滑る。手を伸ばして、エルフの剣を掴んだ。
「ふるさとを、とりかえした」
捧げるように渡された剣をトーリンは握った。フィーリはもう一度笑った。
「だいすきなおじうえ」
別れの言葉は氷のように耳元で散った。
幼子のつたない歩みの時から、その金髪を幾度愛しく見やっただろうか。
トーリンにはフィーリは灯火だった。先駆け。道を示す。ふるさとへ。未来へ。
手を握り、渡された柄の感触にはっとする。――何故剣を?
その時、氷の下からの敵の目に気づいた。
*
敵の息の根を止めて、胸が燃えるように熱かった。だというのに指先が、腕が、冷たい。
私は剣を持てているのだろうか?
重たい身体を引きずるように歩いた。
戦況は。
―――故郷は。
ああ、お前は来るなと願ったが、天上の館はきっと遠くない。
ああ、我らがふるさとは。
トーリンは辿り着き、断崖から扉を見はるかす。
ドゥリンの一族の築きし、取り戻したその山の門を。