ノロ リム談義

「ノロ リム、だってさ」
「……祈りですね」
「祈り、だよねぇー」
 そんな会話をして、ふたりのエルフはフロドに向き直った。
「君は本当に、希望だったんだよ」
「アスファロスも大変だったでしょうね」
「…はぁ」
 目の前にいるエルフは、ルーミルとエレンミーレ。共に、物凄く有名な物語(いや、歴史か)の作者だ。
 アマンの西の奥、ヴァルマールにほど近い平原に建つ館、そこにふたりは住んでいる。
 今日フロドはそこに招かれてやって来たのだ。
「――あの、ノロ リムって、具体的には一体どういう意味なんでしょうか」
 おそるおそる聞いてみると、ルーミルとエレンミーレは顔を見合わせた。
「……どう、…だろ」
「どうって……あー、そのへんにエイセルロス来てませんかね」
「んっとー」
 ルーミルは立ち上がって、平原をきょろきょろと見る。
「フロドはどういう意味だと思ったんですか?」
 にっこりと微笑んでエレンミーレは尋ねる。
「……“急げ”かな、と思ったんですけど」
「ああ…、間違ってはいませんよ」
「でもどうして、それが“祈り”になるんですか?」
「それは、わざわざその言葉…単語にしたことに意味があるんですけれど…」
「あ、いたいたー!エイセルロスー!」
 横でルーミルがぶんぶんと手を振った。フロドも立ち上がり、そちらを見やり、かろうじて点のような人影を見つける。
「見えました?」
「あ、はい」
 フロドは少し階段を駆け上がる。
 館の入り口の階段は広くて高くて、まるで物見台だ。上がれば少しは見えやすくなった。
 点のような人影も、どうやら手を振っているらしい。
「じゃ、よーく見ててくださいね」
 エレンミーレも立ち上がった。
 ルーミルは手を振るのをやめて、どうやら手招きに変えている。フロドは人影をじっと見た。目を離さないように。
 その時、よく通る伶人の声が、はっきりと言った。
「エイセルロス!ノロ リム!」

 フロドは人影を見失った。

「ちょうど良いのがいましたね」
「相変わらずだねー」
 そんな会話が耳に入った、と思う間もなく、見知った不可思議な金髪のエルフが館の前に飛び込んできて、フロドには聞き取れないほどの早口のクウェンヤで何事か叫んだ。
 エレンミーレとルーミルがけらけら笑いながらフロドを示す。エイセルロスは目をぱちくりさせて、息をはずませて、共通語で言い直した。
「あの、いきなり、ノロ リムって、何か、重大事でも…?」
 フロドはふるふると首を横に振った。
「な、何もないんですね。ああびっくりした」
 フロドは、内心首をかしげた。“ノロ リム”は、単なる“急げ”ではないらしい。
「ごめんねー、フロドが“ノロ リム”の意味を知りたいって言うからさー」
「まずは実例がいいかと思いまして」
「あ、はぁ、そうですか…」
 ノロ リムなんて、久々に言われました…。
 エイセルロスは息を整えながら言う。そういえば、とフロドは思い出した。このエルフが息を切らしてるところなんて見たことがない。走っている姿はよく見るけれど。
「あれ、ノロ リムなんてしたの?いつ?」
「ええと、いっぺん死ぬ前ですねぇ」
「会議中に報せに来た時でしょう。モルゴスが来たって」
「そうです。フォルメノスからヴァルマールまで」
 フロドはぱっくり口を開けた。そうか、あの使者がこのエルフだったのか。
「あー、それはノロ リムだよねぇ」
「アスファロスに負けない重大事ですね」
 いえあの別にそれはどうでもいいんですけど。エイセルロスは決まり悪そうに言う。
「それも“祈り”かなぁ。グロールフィンデルのも“祈り”だけど」
「……あの子が“ノロ”を分かってたか怪しいところですけどね」
 覚えの悪い子でした、とエレンミーレはからかうように言った。
「アスファロスは分かったんじゃん?えらいなぁ」
「裂け谷の馬なだけに、博学だったんでしょう」
「…実は別の意味ができてたりしてー」
「“ノルノロ”に?…エイセルロス、あなた分かってますよね?」
「へ、あ、そりゃ、エオンウェさまの走るとこ見たことありますし」
 おお、とルーミルとエレンミーレは言った。
 経験ですか。やっぱり経験がものを言ったよ。きゃっきゃと盛り上がる。
 そんなやりとりを前に、フロドは大混乱する。走って?ノロがノルノロで?じゃリムは?急ぐのには関係してるらしいけど…。
「今度聞いてみてくださいよ、マンドス住人に“ノロ リム”について」
「ああ、あそこ、朗読会やるとやたらと盛り上がりますよ」
「やっぱり?」
「でも若いコたちは周りの盛り上がりにビビってますね。ぽけっとしてるっていいますか」
「なるほど」
「あの…で、“ノロ リム”って…?」
 フロドはおそるおそる声をかけた。アマンへ渡ってわかったことだが、こちらのエルフたちはどうも話が際限ない。
「意味ですか…」
 エイセルロスはうーん、と唸った。他のふたりは答える気がないらしい。
「急いで…、急いで…、急いで…。…まぁ、急いで行けとか走れとか、そんな感じなんですけどー…」
 エイセルロスは、あ、と声をあげた。
「そうか、だから世代差が出てるんですね!単なる急げな感じなんだ」
「せっかくだから、単なる“急げ”じゃないってことを見せてあげてくださいよ」
 エレンミーレがすかさず言う。え、とエイセルロスは困った顔になった。
「……実物ですか?」
「実物を」
「体験に勝るものなしって君が証明したでしょ、さっき」
「うー…」
 エイセルロスはぶつぶつボヤいた。簡単に言いますけど、簡単に頼める相手じゃないじゃないですかー…。
 ルーミルとエレンミーレは顔を見合わせ、一緒に肩をすくめてみせた。
「ナーモさまにはガンガン文句言うくせにー」
「う」
「いっつも腰低いんですから大丈夫ですって。おねだりしてみなさい」
「ぅうー」
 畳み掛けられて、エイセルロスはついに、じゃあ、頼んでみます…と言って、去っていった。
 目で追えはするが、それにしたって足が速かった。

+++  +++

 さて、とルーミルとエレンミーレはフロドに向き直った。
「ごめんね。意地悪したわけじゃないんだ。だけどノロ リムっていうのはエルフにはいろいろ感じる言葉なんだよ」
「正確に言うと、二つの木の光を知っているエルフには、ということになりますか」
 あとはその時代を文献で読んだ方々と…、エレンミーレの言葉にフロドは裂け谷を――正確にはその書庫を――思い出して、さもありなんと納得した。
「結論から言うとね」
 ルーミルはどこからか木の枝を拾ってくると、近くにあった砂地にがりごりと絵を描いた。大きな車輪。馬車。
「“ノロ”は“ノルノロ”で、つまりは“ノルノレ”」
 馬車に乗る翼のある人影。その横に、旗を持ったもうひとつの人影。
「マンウェさまの伝令使エオンウェさまのことで、かつ、この馬車のことでもある」
「つまり、めっちゃくちゃ速いんですよ」
 マイアールの伝令使。ヴァラールの馬車。聞いただけで速そうだ。
「で、リムは光」
 ルーミルは馬車の絵の横に馬をざかざかと描いた。
「閃光、ひらめく光、光の矢…」
 馬のひづめから火花が散る。
「オロメさまの愛馬ナハールの蹄の火花が一番近いんじゃないかな」
 ルーミルは絵を描き終えた。
 うん、似てないな。しみじみと言うものだから、隣でエレンミーレがかくっとよろけた。
「僕らは見たことがある。だから“ノロ リム”には祈りを感じる。光の矢のように、“ノルノレ”のように…」
「速く、強く、貴く、悪しきものに触れられず」
 ふたりのエルフは唱和する。

「さあ行け、どうか、行ってくれ、と」

 それは確かに祈りであった。

+++  +++

「まぁ、アスファロスもよくがんばりましたよね。誰かにテキトウに言ったからって“ノロ リム”できるわけじゃありませんから」
「そうそう、その辺のお馬さんに“ノロ リム”って言って、意味がわかっても、“ノロ リム”できないからね」
「エルフにも迂闊に言わないでくださいね。実践できるのなんてエイセルロスしかいませんから」
「大丈夫だよ、普通、エルフは実践しようとか考えないから」
 バカ正直はあのひとだけでしたねー、と、先ほどまでの空気はどこへやら、またふたりは軽口を叩く。
「でも、絶対見るべきだよ」
「実例をもうふたつも見たんですから…」
「語源も見るべき!」
 けらけら笑いながら、もうすっごいんだからー、と力説するふたりを見て、フロドは深く、頷いた。