「注いでくれない」
たいそうぶっきらぼうに突き出された杯に、彼はふわふわぼんやりした思考で酒を注いだ。酒といっても果実が主成分のそれはとても甘くて、おかしいな、こんなにくるくるするわけがないのにな、と思わせた。
白くて細くて長い指が杯を掴んでいたのだが、それを豪快に傾けるのを彼は見た。あ、きれい。そんなことを思って杯を持つ手の主を見たならば、そこにいたのはある意味でものすごく当然で、しかし間違ってもこんなところにはいない筈の人物だった。こんなところ。宴席の隅と言えば隅、中央と言えば中央。飲み物の集められた柱の陰、彼の担当の樽と樽で出来た通路みたいな隙間。
「え、うえぇえええ!」
あげた声は呂律が回っていなかったし、そんなに大声ではなかった。だから変わらず宴のざわめきは続いていたし、「おかわり」と杯を突き出してくる白い手の持ち主も消えたり変わったりはしてくれなかった。
「ト、トゥーナの君、なんで、」
ここにいらっしゃるんですか、と続けたかった言葉は、相手の顰めた眉に阻まれた。
「なんだそれ、やたら遠い呼び方。名前で呼んでよ」
「え、その」
「誰も見てないからいいでしょう」
「え、あ、う、………フィンウェさ、ま」
樽の間に隠れつつそっと呼べば、唯一無二の我らが王は晴れやかに微笑む。
「いいのいいのこれ位がいいの。良いじゃない。皆楽しくて」
「はあ」
「…………」
全く回らない頭で返すと、おかわりを注いだ杯をフィンウェはまた豪快に干した。ふ、と息を短くつく。
「―――ねえちょっと、私すこし前からずうっと思っていたことがあるんだけど」
「はい」
彼はどぎまぎして何だか分からない。ちょっと前から樽の陰で、こっそりひとりでやっていた。それで良い感じに回ってきて、ふわふわし始めた時にちっちゃな赤毛のこどもが樽の陰に潜りこんでいった――のはちゃんと見ている。声は掛けた。しーって言われた。黙っておくことにした。
だからと言って、こんな事態は予想外。飲まなきゃやってられない。そういう結論が出たので、彼は王に相槌を打ちつつ、自分も杯をくいと干した。
「ノルドールはさ、」
「はい」
「私が間違えたら、どうするのかなあ」
彼はきょとん、と目を瞬く。フィンウェはその冴えわたる灰色の眼で、こちらを真っすぐ見ている。
「フィンウェさま、は」
「うん」
「間違えません」
素直に、本当にぽろりと彼は言った。フィンウェは薄ら口を開いた。眼が、一度大きく瞬いて、それからゆうるりと、ほんの少し歪んだ。
「そう?」
「はい」
「………、でも、間違えたら?」
樽にごんっと凭れながら、彼はそれなりに必死で考えた。ええと。間違えたら。フィンウェさまが間違えたら?
「あ、ちょっとなんか安心します」
「安心?」
「嬉しい、ていうか。あーフィンウェさまも間違えるんだなーって」
フィンウェは今度はぽっかり口を開けた。はっ、と気の抜けた息が漏れて、それからははと笑った。
「そう」
「はい」
「…………、じゃあ、ねえ」
名前を呼ばれて、彼は何だかむずがゆくて口を曲げる。むずがゆい、でも嬉しい。何と言っても大好きな王であるからして。
「私が、間違えてはいけない所で間違えたら、どうするの?」
真摯な瞳で。
真摯な声で。
フィンウェは問うた。
あの宴席で、花のほころぶように笑った王の顔が忘れられないのと同じように、あの時の自分の気軽な言葉も忘れられない。ただ、いくら後悔しても頭割れるほどに考えても、きっと自分はあれ以上の答えは出せない。持っていないのだ。
困ったな、抱っこはあの子の特権なのに、と少しむくれた顔をした王に抱かれて行った赤毛のこども。
すっかり大人になって、そして心持はきっと誰よりもあの王に似た。
だから、今ここに自分は立っているのだ。
「間違えてはいけない所で間違えるのですね」
呟く、それを聞き取ったのか目の前の剣が僅かに揺らぐ。
「止めないわけにはいかない。ここに立つのは、あなたは間違えないと信じているから」
叫び出しそうな顔を見た。
“仕方ないと思います”
――――なぜ?
“間違えてはいけない所って、分かっているのに間違えるのは、それは間違えたいから。だからきっと、仕方のないこと。でも”
――――でも?
“間違えないって信じてるんです。だから、間違ってるって言います。できたら、間違えるその前に”
「それでも間違えたなら」
胸の痛みを押さえこむように、相手の背を抱いた。強く。これ以上の答えは出せない。今も昔も。
「もう、ひとりではありません」
胸から熱が噴き上げて広がる気がした。泣きそうな顔をしている。笑わせたかったのにな、と思った。暗くなる視界に、花開く王の笑顔を見た。