ねえ兄上、良いでしょう、という声にはっとフィンロドは正気づいた。
自分へ向けられた声ではない。比類なき伶人の従兄が、その兄、砦の主に向けて発した声だった。
ふと、ナルゴスロンドにいるクルフィンのことを思い出した。クルフィンも時々、ケレゴルムに対してこういう物言いをする。こういう、滴る蜜のような声音を……。何故か背筋がそそけだつ気がして、フィンロドは足早にその場を辞した。マエズロスは不思議には思わないのだろうか。マグロールがあんな物言いを、……
フィンロドは立ち止まった。ここは、どこだ? 揺れることのない光、フェアノールの光る石のランプをふんだんに使った砦、当然ここはヒムリングの大砦に相違なかった。遣いを出すわけにはいかない用件で来たはずだった。
そう、ヒムリングに着いた時は嵐だった。宵の空は妙にうす明るく、ぬるい風が雨粒を余計にじっとりと身体に投げかけ、息を浅くさせる。ねばつくような闇の中から誰か――マグロールが。
そして?
「ナルゴスロンドの弟から手紙が来ましてね。だから迎えに行ったんですよ。私が」
揺れない光の影から先に声が現れた。フィンロドは、蘇った記憶と共に、信じられないものを見る心地で声の主を見返した。
なにもかも全て分かっているかのようにしっとりとマグロールが微笑んだ。確かによく知った従兄であるのに、どうしてかフィンロドの瞳は、その存在をきちんととらえることは出来なかった。
「あの弟のやり方を誰が教えたと思っていたんです?」
他ならぬこの従兄だ、とフィンロドの心は応えた。けれどフィンロドの声が発せられることはなく、瞳は像を結ばず、そんなところにまた声が――まとわりつく。
「やはり具合が良くないんですね、フィンロド」
常ならば安堵できただろう。優しい愛撫のような声に、飛び込んでしまいたい。なのにどうしても恐ろしい。
「フィンロド、もう少し療養していらっしゃるでしょう?」
ヒムリングに、着いて何日経ったのだろう。ナルゴスロンドを発ってからは…。なお悪いことに今のフィンロドは、どうしてもマエズロスと話さなければならなかった用件が、欠片のひとつでさえ思い出せないのだ。
相反する記憶と心に、身体は震えることも出来ずに固まっている。なぜ立てているのだろう。なぜ息が、止まってしまわないのだろう。
「心配することは何もありませんよ。さあ、」
聞かずにいることは出来ない声が、甘やかにフィンロドの心臓に、思考に、視界にからみつく。
「おやすみなさい」
フィンロドは確かに闇の遠くから鋭い悲鳴を聞いた。だけれども何ひとつその場にたどり着くものは無く、フィンロドは夢すら見ない睡りの中に落ち込んでいった。