「寝てる時に頭の上にみかん乗せられる」

 ビルボとフロドがコール、ヴァリノールの平原のただ中にある歌と言葉の館に滞在している時の話だ。館の主は伶人と言語学者で、当然客は引きもきらず、ホビットたちが滞在している間も変わらずたくさん訪ねて来た。フロドが見たところ、ホビットに興味を示すのは伶人への客の方が多く、むしろ学者への客の方は、ルーミル曰く「めんどくさいことになるから」と丁重に止められているようだった。
 学者は客の選別に熱心であるように見えた。フロドが疑問に思って聞くと、ルーミルは常のゆるっとした微笑みで、
「フロド殿はわかると思うんだけど…」
 と説明してくれた。
「ビルボ殿がね、君に半分権利のあるお屋敷に住んでいるとするね。実際のところフロド殿が間借りしているんだけど、そもそも設計から何からフロド殿がしたから、ビルボ殿としては半分権利があって当然だと思っている。で、その状態でフロド殿には来客がひっきりなしに来る。ある程度はビルボ殿もそういうものだからと気にせず過ごしてくれる。でもフロド殿、君の来客が、ある日、ビルボ殿が家にいるのが邪魔だとか、そういうことを言い出す。言うだけじゃなくて態度に出し始める」
 言い終える頃にはルーミルはすっかり真顔だった。
「それがコールだよ。僕は我慢できない」
 フロドは深く納得した。フロドだって我慢できないと思ったからだ。そう思ったのをよく分かっているルーミルは、だからね、と続けた。
「君がビルボ殿のためにしたいと思うことを僕は応援してるからね。なんでもやるといい」
 実際、ルーミルはエレンミーレのために何でもする。
 が。エレンミーレだって自分のしたいことを何でもするし、これがまた驚くほど行動的なので、助言や手助けを求める前にすべてをこなしていることだって珍しくない。そんなエレンミーレがホビットたちに向かって厳かに宣言した。
「冬が来ます」
「はあ」
 ビルボが素直に答えた。冬と言うのはですね…とエレンミーレは続けた。ここアマンの、しかもヴァリマールに近いこの平原では、計画的に天候が変わるらしい。つまり季節としての冬、気温が下がり雪が降ることも、事前告知の下に行われる。ヴァラールの仕事だ。
 冬支度の宣言をした翌日、コールは様変わりしていた。
 あちこちに絨毯と毛皮が増え、館の中には垂れ下がる仕切りが増えた。中でも大きく変わったのは主たる大広間で、元々その大きな空間に伶人が楽器を並べたり、学者の議論を聞きながらごろごろしていたりするのだったが、そこに出現していたのが、布団を備えた低い大きな机だった。ルーミルが、ああ、出すの…とぼそっと呟くのをフロドは聞いた。
「あれは何ですか?」
「んー、炬燵って言うんだけどね。たぶん君たちの定位置になるよ」
 ほどなくして雪が降った日から、学者の言葉通りにホビットたちは炬燵に潜り込んでいる。
 絨毯の上に直接座るのにも慣れてはきたが、ルーミルがするように炬燵横の段差に足を投げ出して膝掛けをかけるのも悪くない。とはいえ温かさが全く違うので、どちらをとるかは悩みどころだ…とフロドが思うのを後目に、エレンミーレとビルボはごく自然に炬燵に入って横たわる。ルーミルがフロドに目配せして、柔軟なんだよね、ほんと、と小声で言った。
 さてそんな根っこを生やしそうな定位置に、ルーミルがある時果物を山のように積んだ。オレンジによく似た、ただし小ぶりの果物だった。
「みかん!」
 歓声を上げたのはエレンミーレだった。いそいそと起き上がると手で皮を剥いて(ナイフが要るなと思ったのでフロドは驚いた)、やはりオレンジに似た、それよりも小さな房をあらわにした。香りもほとんどオレンジのようだった。ビルボもひとつ取って、皮の柔らかさに感動の声を上げた。
 エレンミーレは房のひとつを薄皮ごと口に放り込んで、んん、あまい、と笑う。
「ちゃんと熟してた?」
「ちょうど良いですよ。ほら」
 話しながらエレンミーレが房をひとつルーミルの口に放り込んだので、フロドは、あ、いいな、と思った。思った瞬間に横手からフロドや、と呼びかけられて振り向く。皮を見事に剥いて房ごとに分けた果実を手にビルボが笑い、ほら口をお開け、と言われたので、雛鳥のようにぱかっと口を開いた。
「! 美味しい」
 予想よりもはるかに甘い味わいにフロドが感激していると、その間に三房ほどぱくついたビルボが、止まらなくなりそうだ、とぼやいた。

 蜜柑は炬燵に常備されるようになった。
 種が無く、手で剥けて、薄皮ごと食べられる果物が手近に積まれるようになると、つまりジュースを食べているようなものだから、炬燵からますます抜け出せなくなる。用事があっても手早く済ませ、すぐに舞い戻るようになる。
 「冬」のコールにはそれでも来客は多いのだが、扉が開くたびに入って来る冷気は垂れ下がる仕切りを揺らして、炬燵にたどり着く頃にはだいぶ遠い冬の気配しかさせない。エレンミーレはよほどでなければ出ようとしないし、それをルーミルが喜々として甘やかすものだから、こんなに広い館だというのに、生活空間がものすごく小ぢんまりとなってしまった。
 フロドが戻ると、ビルボが蜜柑を持って、そーっと手を伸ばしていた。声をかけようとすると、振り返って、静かに、と示される。
 忍び足で近づくと、炬燵の影に隠れた全貌が見えた。
 エレンミーレが仰向けに、目を閉じて横たわっている。ほとんど呼吸も聞こえないが、これが伶人の常の寝姿なことを、もうホビットたちは知っている。
 その白い額に、鎮座する蜜柑。
 フロドは吹き出しかけて口を手で押さえた。なんで? 目で訴えると、ビルボが2つめの蜜柑を積もうとするので、ますます笑いがこみ上げる。うまく載ってしまったものだから、フロドは近寄れずにふるふる震えた。
 ビルボはおもむろに3つめの蜜柑を掲げた。緊張感が走る。柔らかい皮はうまくいけばとてつもない安定感をもたらすが、はたして――
 ごくり、と唾を飲む音が聞こえるほどの静寂の後、ビルボはゆっくりと拳を掲げた。
 フロドは無声で全開の笑顔になって近寄り、ビルボに抱きつきながら蜜柑の塔を覗き込んで、ひゅっと息を飲んだ。
 エレンミーレはぱっちりと目を開けていた。
 伶人はぴくりとも動かないまま、視線をつー…と自分の頭上にうつした。瞳の中に蜜柑が映ってるなあ、とフロドは考えた。
「みっつ?」
 エレンミーレは言って目を閉じた。ホビットたちは詰めていた息を吐き出した。
 そのまま伶人は全く動かなかったので、ビルボもフロドもそわそわしながら炬燵の横に座っていた。ちらちら視界の端に入る蜜柑の塔が気になって仕方ない。
 と、空気がすこし動いて、ルーミルがやって来た。炬燵に向かって来た彼は、ホビットを見て、蜜柑の塔を見つめて、足を止めた。弁明をしようかとフロドが声を出しかけた時、
「エレンミーレ、蜜柑食べていい?」
「どうぞ」
「ありがと!」
 ルーミルはさっと両手に蜜柑を掴み取ると、踵を返して出ていった。
 エレンミーレはむくりと起き上がると、片手に塔の最後の蜜柑を持って、真面目な顔で呟いた。
「ルーミルには何個載りますかねえ…」
 ホビットたちは揃って吹き出した。それから招かれるままに炬燵に入り、いつものように蜜柑をおのおの剥いて食べた。
 わたしが寝たらビルボが蜜柑を手にそっと近づいてくるかもしれない。そんなことが頭に浮かんだから、フロドはこの冬が続くうちに、炬燵でうとうとする日を心待ちにすらしていると言えるだろう。