だが今日ではない

 マグロールには音楽の師匠と呼べる相手がいる。ヴァンヤールの伶人、エレンミーレである。
 歌声の出し方を習ったとか、楽器の扱い方を教わったとか、そういうことも勿論そうだが、彼を師として学んだのはおそらく、伶人としての在り方である。
 気品も気位も高い方だったが、それは彼の確かな実力によるものだ。
 宴においては何よりもまず、場を読むこと。とエレンミーレは言った。今、自分がどんな立場でこの席にいるかを理解しなさい。この場でどのような歌を広げるべきかを考えなさい。王に付く伶人たるもの、それが出来ないようではただの歌い手です。
 「ただ歌う」ことを何より尊んでいるくせにそんな物言いをする。ただの歌い手が心の赴くままに唄うのを、とろけそうな目で見ているのに、伶人のお役目を果たすことにはおそろしく厳しいのだ。
 我が強く高慢な印象もある。最もそれは、エレンミーレが半ば意識して成していることでもあって、実際のところを言うならば「すこし、わがまま」くらいになるだろう。

 マグロールがまだ幼く、ほんの少年の時分、宴の席で歌ったことがある。
 思えば本当に少年の、むしろこどもの頃だった。歌うのは好きだったが、それこそ後にエレンミーレの言う伶人の心構えも何もなく、音楽に意識して触れるのだって始めたばかりの頃だった。
 出来は、良かったと思う。
 たくさんたくさん褒められて、弾むような気持ちでいた。重苦しい言葉を投げつけられるまでは、本当に身体が浮きそうな心地だった。
 けれど些細な、しかし悪意のある言葉にすっかり気が塞がり、息をうまくできなくなった。
 ひとのいないところに行きたくて抜け出した隅に、エレンミーレがいた。
「どうしました」
 軽やかに問われたけれど声を出す気力もなくて、マグロールはただ頭を振った。
 エレンミーレはふむ、と唸るような声を出すと、浮かない顔のマグロールをじっと見ながらこう言った。
「私はいつか、あなたの才能に嫉妬して、隅っこでじめじめしたり、壁に当たり散らしたり、枕を噛んで悔し泣きしたりする日が来ると思います」
 マグロールは驚いて口を開けた。エレンミーレがそんな、そんな無様なことをするとはとうてい思えなかった。けれど彼はふふ、と微笑むと、こう続けた。
「だが今日ではない。――と言わせて貰いましょう。今日は実りの日、幸いの日、私にとっては豊穣の日、おそらく種を蒔いた日にもなる」
 自信に満ちた宣言だった。マグロールの良く知る伶人は、何もかもお見通しですよと言いたげに、マグロールを覗きこんだ。
「何か言われたんでしょう」
 びく、と身をすくませたマグロールに、次の言葉が降ってくる。
「違いますよ」
 エレンミーレは真摯な声で続けた。
「あなたがその若さでここでこうして歌うのは、あなたに輝ける才能があるからで、あなたにその場が与えられたのは、あなたがフェアノールの子だから――ではなく」
 見上げた先、師はこれ以上に楽しいことはないというふうに、にまり、笑った。
「私のわがままです」

 そういう物言いでマグロールの心を軽くしてくれるひとだった。別に優しい嘘ではない。大体の場合エレンミーレは本当にわがままで、ただそのわがままが結果として他のものにも良いように終わるというだけだ。
「だからね、あなたは何かをごちゃごちゃ考えたりせずに、思いの向くまま歌いなさい」
「……少なくとも、今日は?」
「そうですよ。少なくとも今日は。私があなたより先に生まれた分くらいは」
 そんなやりとりをして、少年マグロールはエレンミーレと一緒に歌った。楽しかった。エレンミーレは嬉しくてたまらないというふうにはしゃいでいた。

 師匠が嫉妬して煩悶した日などあったのだろうか。マグロールは正に妬ましさに悶えそうな思いを抱え込んで、荒らかな足取りで宴を辞した。辞せていれば良いが、逃げ出したのかもしれない。いや、元々もう辞する予定だったのだ。それが、予想外のことに少し――少し、逸脱してしまっただけで。
 使者としてやって来たシンダールの伶人と歌った。楽しかったと、手放しには言えない。震えるようだ。何を画策するでもなく、ただ歌って、場のすべてを掴まえたあの声が、民の心を浮き立たせ塗り替えたあの歌が、恐ろしくてならなかった。
 この宴で出会ったのでなければ、そんなことを思ったりはしなかったのかもしれない。ただの歌い手同士として会えば、今合わせたベレリアンドの春の歌のように、違う光と彩を、高めて紡ぎあえるのかもしれない。そうしたら楽しいだろう。エレンミーレもいたら、はしゃいで、楽しくてひっくり返るくらい嬉しいと、そう、そうだ…。
 彼とそんなふうに歌うのは、だが今日ではないのだ。
 伶人のお役目は果たせた筈だ。
 マグロールは隅っこでじめじめもしなかったし、壁に当たり散らしもしなかった。今日枕を噛んで悔し泣きしても、きっと師匠にばれはしないだろう。