夜がめっきり冷え込んできた季節に、カランシアとハレスは外で行き会って、雨に降られた。午をいくらか過ぎた時間だったけれど、空はあまりに重く垂れ込めていて、薄闇があたりを覆っていた。
 ふたり馬を駆けさせて東へ向かう。雨はいよいよ強さを増して、視界はぐんと悪くなる。ぬかるんだ川岸を、流れを遡るように馬を駆って、山肌に行き着く。暗い木立の幾つかを通りすぎれば、張り出した岩の陰に洞を見つけることができた。
 馬を入口の近くに置いて洞の奥を探ってきたカランシアが、ハレスを呼んだ。
 濡れた前髪をぐしゃりとかき上げて、ハレスは彼の後に続いた。首のあたりから染み込んだ雨が背筋を伝い、ぞぞと怖気が走る。
 カランシアの持つエルフのランプの青白い光が歩みと共にぐらぐら揺れている。
 頭が重い。雨に降られる前から、否、数日前から感じていた体調の悪さが、ここに来て一気に現れたようだった。
 ……気持ちが悪い……
 岩壁に手を突く。こらえきれない眩暈が突然襲い、ハレスの視界に青い光が弾け、ぱちんと消えた。

 炎の、枝のはぜる音がする。
 ハレスはゆっくりと目を開く。
 横になった視界の中で赤々と火が燃えていた。その奥に闇と、闇の横に雨の音が遠く響いている。頬にゆるゆると炎の発する熱気を感じる。
 と、その炎を遮って、暗い影が現れる。
 ひやりとした手が額に触れた。ハレスは身を竦めた。カランシアは軽く眉を潜めると、唐突に訊いた。
「何が辛い?」
 ハレスの眼の少し上が、軽く痙攣した。
「な、に…?」
「熱がある。何が気にかかっている?」
 枯れた草原のような灰色の瞳が恐ろしいほど近くにあった。ハレスは、火を背にして陰になったその顔を見つめて言葉を紡げない。熱気は遠ざかったのに顔が赤くなった気がした。熱があるのだ熱のせいだと頭の中で声がした。
 カランシアは訝しげにハレスを見つめていたが、ああ、と小さく呟いて手を離した。
「………エルフも病む。身体が傷つけば勿論だが、心が病むと熱が出ることもある」
 人の子はそうではなかったか、と自嘲するような淡い笑みで言う。
 ハレスは落ち着かずに身を捩る。身体はどうやらマントでくるまれていて、こどものように寝かしつけられていた。身を起こそうとして頭の揺れに断念する。
「寝ておけ」
 カランシアはハレスの頭の傍らに座りながらそう言った。
 優しい手がゆっくりと髪を撫ぜ、囁く声音が何かあたたかな言葉を紡いだ。
 エルフの言葉だった。
「アダァ?」
 耳に残った言葉を繰り返す、と、カランシアはまじまじとハレスの顔を見つめ…次の瞬間、顔を赤くした。
 口が何かもの言いたげにあくあくと開け閉めされ、彼は、ごめん、と一声洩らし、次いで大失態だと言うような深い溜息をついた。
「いや、すまない。忘れてくれ」
 ハレスは何だかむっとして、アダァ、と繰り返した。同時に後悔した。
 カランシアはまるで心を引きちぎられたような表情を一瞬見せた。半ば茫然として、涙の流し方を忘れてしまったような。それはすぐにあえかな笑みに取って代わられ、彼は痛みを沈めた瞳で、ふっと小さな息を吐いた。
 沈黙が落ちた。雨の音がする。遠く、だが途切れなく響いている。

 やがて雨の音に混じって、低く、囁くような旋律が聞こえてきた。ハレスは目を閉じた。カランシアが歌っているのだと分かっていた。
 優しい声、優しい音色。やわらかな雨のように思えた。淡い葉を濡らす、光の中で静かに降る雨だ。
 おいそれと触れてはいけない傷にふれてしまった。その事実はハレスの心にも傷をつけたけれども、彼の歌はそれをも許すような慈愛に満ちていた。
 ちいさなこどもに戻った気がする。
 彼がそう望むのなら、この雨の間はこどもでいてもいいだろうと、そう思った。歌は続いている。
 炎の暖かさと歌に守られて、ハレスは幼子の夢に入っていった。