主従

 ケレゴルムはフアンのあるじである。おそらく同じく至福の地で産まれた猟犬たちの誰もがあるじをオロメとしているだろう。けれどフアンは違った。フアンはケレゴルムに会ったその時、あるじに気づいたのだった。そう見ると、オロメはフアンの持ち主であったのだった。
 オロメはくりくりとフアンの額を撫でて、なるほど、と言った。
 なるほど、それでは、ゆくところへゆかねばなるまいな。

 狼、と呆然としたように呟いたのだった。かつてそんざいしたこともないきょうだいなおおかみ。フアンにもたらされる運命についての予言を聞いたとき、ケレゴルムは幼子のような拙い声で言った。
 やがてひとつ頭を振り、傍らのフアンにじっくりと言った。
「俺に言葉を使うなよ」
 フアンのあるじと語らいたいという望みは、とても三度の会話では足りるとは思われなかった。だがケレゴルムはそうはするなと言う。あるじが明確に言葉でフアンに命令するのはこれが初めてだった。
 もちろん日常の細々した場面で、ケレゴルムはフアンに無数の命令を出したし、フアンはいつもそれに従ってきた。仔犬の時分からいつも寄り添ってきたあるじは、フアンの誇りを良く理解していて、譲れない命令は下さなかった。
 明言された命令は、まるで懇願の響きを帯びていた。
 フアンにはわかった。フアンにはいつもわかった。
 それからケレゴルムは無限の悲しみを繋いだようなフアンの目を覗き込み、頭にそっと手を置いた。
「おまえの主であるに足る……を、」
 フアンは鼻をケレゴルムの首筋に押しつけると、ぎゅうぎゅうと愛撫をねだった。苦笑する気配が伝わってきた。背に回った腕は、震えていたかもしれない。

「狼に遇って来たな」
 そう言って出迎えたケレゴルムを、フアンは尻尾を一度大きくはたりと打って、じっと見上げた。
 ケレゴルムは笑みのかたちの唇で、静かに目を細めた。
 それは咎めるための言葉ではなかった。ケレゴルムはフアンには何も命じてなどいなかった。
 事実を述べた言葉にフアンは同意した。確かに狼に遇ったのだった。
 フアンはフアンの良心に従って行動したのだ。ルーシエンを助けたことの先に待ち受けるものが死であっても恐れはなかった。ただ、ちいさな棘のような痛みを感じた。あるじを悲しませると思ったからだった。
 はたして棘は現れた。
 フアンが死への一歩を踏み出したことを、確かにケレゴルムは悲しんでいた。

 馬にて進むあるじの後に従いながら、フアンは言いようのない焦燥を感じていた。
 よくない。よくないことだ。本能と呼べるかもしれない奥底から、吠え立てる何かがあった。
 事が起きた時、その焦燥は衝動に変わった。そうしなければならないと急き立てる声に変わった。
 フアンは唸り、頭を下げた。馬が怯えていなないた。
 低いうなり声と剥きだした牙と。下げた頭は威嚇のしるし。
 そしてそれは、あるじに対してとる動作ではありえなかった。
 立ちすくんだ馬の上から、かたい響きの声が落ちてきた。
「それではおまえはついに狼に遇うというわけだ!」
 あるじの瞳は確かに見知った、それでいて存在したこともない何かに似ていた。
 心を引き裂くような激しさの。

 森の奥へと追っていったのは何故か、フアンは自らの心を探ろうとはしなかった。
 そうして、まるで打ち捨てられたように森の真ん中で、大地に横たわるあるじを見て、フアンは突き上げる衝動に駆られて口を開いた。今にも言葉が迸るかと、その時、
「だめだ」
 静かに、ケレゴルムは言った。
「云うなフアン。俺に、言葉を、つかうな」
 フアンは口を閉ざすと、小さく、くぅん、と鳴いた。仔犬のような鳴き声だった。
 ケレゴルムはぐたりとした腕を上げ、小さな袋を放ってよこした。弾かれたように近づいたフアンは、止める手つきに踏み止まる。
 狼…、狼か!やりきれないと言った風にあるじは嘆息した。そしてその、深い深い瞳がフアンを愛おしげに見つめた。
 瞬き。
「さあ、行け!あの一途さに仕えるなら、……」
 きっとおまえは。
 フアンは駆け出した。袋を銜え、いっさんに森を抜けて。
 振り返らなかった。
 最後の命令と呼んでも良かった。ケレゴルムはいつだって君臨するものだった。鳥獣の傍らにあり親しみ、支配し従えるものだった。
 友のように睦むだろう。だがあるじはあるじでかわりなどない。
 崇める一途さは今も変わりない。フアンにはわかった。
 フアンにはいつも、わかった。