燦星の岸辺

 5年間ばかり消息不明だった勇敢なるフィンゴンが帰って来た、という報せをフィンロドは珍しくナルゴスロンドで受け取った。フィンロド自身、5年を超えて方々を彷徨うことはあったが、確かに消息不明のままということはなかった。
 報せはもうひとつあった。帰って来たフィンゴンは、息子を連れていると言うのである。
 謎の出奔は謎を抱えて帰って来た。だが混乱した報せでも間違いなく分かったことはある。
 そのこどもは、紛れなくノルドール上級王の世継となる子だった。
 挨拶に行くよ、一緒に来るかい――そう、ちょうど5年前からナルゴスロンドに繁々と来るようになった姪に尋ねると、フィンドゥイラスはもじもじと指を組み合わせて、いかない、と言った。
「その子に会いたくないわけじゃないの。だけどわたし、まだちいさな子に会う決心がつかないの」
 でもね、おとうさまは誘ってちょうだい。
 可愛い姪の可愛いお願いに、フィンロドは一も二も無く頷いた。

 オロドレスもその報せは受け取っていたようで、フィンロドが行くとすっかり旅支度を整えていた。ただ、何か思いつめたようなその瞳の色がフィンロドには気にかかった。
 行かない方が良いかな。そう思った刹那、オロドレスは不可思議な笑みを浮かべて行こうよ、と言った。
「兄さんが誘いに来てくれるとは思わなかった」
「フィンドゥイラスが、誘ってって言ったんだよ」
「……そうか」
「あの子は会う決心がつかないそうだけれど」
 オロドレスは痛みの走った表情を見せた。
 5年前、オロドレスは妻を亡くした。フィンドゥイラスは母を亡くした。――同時に、もうひとりの家族も。
「うん、まだ…、あの子がそう言うならそうなんだろう」
 わたしね、お姉ちゃんになるのよ!と喜びに満ちていた声は、今も耳に残っている。

 ミスリムの湖は大きく、海のようだと言う者もいるかもしれない。海に親しんで育ったフィンロド達からすればそれは全くもって違うものだと言える。けれど波の音はとても穏やかな日の海のものに良く似ていて、波の寄せる岸辺は午後の光に包まれてとても美しかった。
 その金色の光の中で、幼子に出会う。

 『エレイニオン』ならあちらにいる、とフィンゴンは笑った。全くなんて呼び名だ、と隣でマエズロスが呆れ顔をしてみせる。
 王家の子、王たちの子。上級王の世継としてはまことに相応しい名を、付けたのはマエズロスだと言う。
「名付けをしたわけではないのだが。こいつがずっとそう呼ぶから」
「しっくり来たからなあ」
「あの子がお前の子だなどとは思わなかったぞ」
「でもあんたは言祝いでくれた。そうだろ?」
 マエズロスは赤子の時にエレイニオンに会ったのだと微笑んだ。フィンゴンが失踪する前のことだ。
 母親のことは、フィンロドもオロドレスも訊かなかった。彼らふたりとも答えないのは分かっていた。

 湖のほとり、振り返った幼子を見て、フィンロドは驚いた。
 やわらかな黒髪に、見たこともないような赤みがかった紫の瞳。
 ――その表情に、見覚えがあった。
「あなたが、エレイニオン?」
 オロドレスは幼子と視線を合わせて尋ねた。こくんと頷いた幼子に、弟は重ねて訊いた。
 父上に頂いた名前は何ていうの。
 幼子は菫色の目をきょとんとさせて、じっとオロドレスの目を見返した。
「アルタナーロ」
 オロドレスは息を呑んだ。
「わたしは、アルタレストというんだ」
 ややあって、弟が出した声は震えてはいなかっただろうか?フィンロドの視界の中で向き合ったふたり。その表情が、フィンロドの遠い記憶を呼び覚ます。
 幼子はぱちぱちと瞬きをして、それから不意にぱっと笑った。
「にてるね」
 オロドレスもゆっくりと微笑んだ。
「そうだね」
 一部始終を見守っていたフィンロドは、心に忍び入ってきた考えにとらわれていた。
 5年前。
 妻を亡くしたオロドレス。その頃に失踪したフィンゴン。ここにいる、幼子。
 まさか。そんなはずはない。けれど。――アルタナーロとアルタレスト。そして何より、あの表情。
 だが、何故?

「海とは違うけれど、ここの波の音も良いね」
 オロドレスが振り返り、フィンロドに微笑みかける。その足元で幼子が無邪気な声を上げた。
「うみってなあに?」
 フィンロドは答えあぐねて、あ、と呟く。オロドレスは幼子の頭をぽんと撫でると、フィンゴン、と呼んだ。
「そうだな、お前は湖しか知らなかった!」
 ちちうえ!と弾んだ声が上がる。幼子は黒髪の従兄に向かって駆け出し、転ぶ前に抱き上げられる。
 いいや、だがしかし、フィンゴンも確かに父親の顔をしているではないか?
 複雑な心持ちに黙り込んだフィンロドの目の前で、だんだんと濃くなった金色が戯れる3人の姿をぼやけさせる。
「エレイニオンの髪はおじいさまに似ているな」
「マエズロス」
 赤毛の従兄はフィンロドの隣にやって来ると、眩しいものを見るように目を細めた。
「金の、透けるような」
 フィンロドは息をつく。
「……そうだね。やさしい色だ」
 答えると、マエズロスは目を離さないまま言った。
「予見が」
「え」
「あるだろう?お前のところは特に…、“視る”のが」
 言葉を切り、マエズロスは黙り込んだ。フィンロドはひとつ頷くと、フィンゴンの方へ駆け出した。

 金の光は赤みを帯びて、東には夜が被さっている。波打ち際で遊ぶと、湖には朗らかな波紋が広がる。
 フィンロドはこみあげる衝動のままに、夜の手前で幼子を抱き上げる。
「父様、と呼んでおくれよエレイニオン!王たちの子よ」
 オロドレスが笑う。幼子の額をそっと撫でて、兄さんだけそれはずるいな、と口をとがらせてみせる。
「わたしを父君と呼んでおくれ」
 輝く髪の兄弟に挟まれて、金を秘めた黒髪の幼子は、この淡いの時間に似た瞳をめぐらせた。振り返った先ではフィンゴンとマエズロスが穏やかに話をしている。
「エレイニオンにはちちうえがたくさんいるの?」
「そんなようなものかな」
 幼子は、少しばかり口をとがらせた。
「マエズロスは、いわない……」
 フィンロドはオロドレスと顔を見合わせた。笑みがこぼれる。
「私たちも誰にでも言うわけじゃない。マエズロスが父親ぶらないからって、君を愛してないわけじゃない」
 額を合わせて告げると、幼子は神妙な顔で頷いた。
「うん。おうた、うたってくれる」
 フィンロドは目を瞬いた。
「珍しいな…」
 呟くと、幼子は真面目に続けた。
「ちちうえもうたってくれる」
「私たちも歌おうか?」
「うたってくれるの!?」
 オロドレスが歌が好きなの、と尋ねると――笑みは満開。
「おうた、すき。おはなもすき」

 寝息をたてはじめた幼子をオロドレスに渡すと、弟は愛しい温みを確かめるような手つきでそっと抱いた。フィンゴン、と囁くように呼んだ。
 フィンロドは振り返る。フィンゴンとすれ違う。マエズロスが行こうか、と笑う。
 辺りはすっかり夜に沈んで、まもなく星の輝く刻限だった。
 岸辺を歩む。後ろの会話がすべりこむ。
「いい子だね」
「ああ。とても」
「一体どこまで行ってたの」
「東へ。星を見に」
「星は見えた?」
「ああ。――燦然と輝いていた」
 フィンロドは横目でマエズロスを見た。夢みるような目をしていた。
 たぶん、後ろのふたりもそうだろうと思った。

 降るような星の下を、弟と帰る。
 歌が聞こえている。オロドレスが歌っている。
  されど 仰ぎ見た星は輝きに満ちて
  降り出さんばかり
  その瞬きに導かれ
  空へと空へと歩むが如く……
 兄さん、呼びかけられてフィンロドは、うん、と返す。
「ありがとう」
 フィンロドは空を見上げる。ああ。嘆息する。
「なんて星だ…!」
 オロドレスが、ふ、と笑い、やがてまた歌が始まった。