「お前の音色はどんなだったか」
灯火の不変の光の下でオロメが呟くと、彼よりも赤みの強い目をした妹はくるりと振り返り、忘れたの、と答えた。
「忘れてしまうには早くはなくって。何もかもまだ始まったばかりなのに」
ネッサは歌うような声音で、緑の大地をとんとんと踏み鳴らす。
軽やかに刻まれる律動が時に深く重く揺るがすようなものになるのをオロメは良く知っている。
様々に色と形を違えた緑のあふれる野を眺め、オロメはまた虚空を思い出す。旋律と和声の中で、オロメ自身も確かにこの妹と声を合わせたはずだった。
オロメの音色は角笛に似ているという。それと絡み合った筈のネッサの音色は、果たしてどんなものであったのか。
妹は今はすっかり歌いはしないのだ。
ネッサは形と色を纏って以来、その形をめいっぱいに使って踊る。手を打ち鳴らし、足を踏み鳴らし、いたって優雅にかたちを描いてまわる。
「思い出せない」
「見ればわかるわ」
「わからないから訊いてる」
緑の野を踏みしめて、ネッサは動きを止める。流れるように七色のヴェールが野に被さる。
「わたくしの音色より思い出したいものがあるでしょう?」
「え?」
妹の厳しい声音にオロメは少し狼狽した。
「兄上が気にかけているのは聞いたものじゃないわ。――歌ったものじゃないわ」
ネッサは両手を顔の前にかざし、それから大きく開いてみせた。
「わたくしが踊るのはどうしてだか、」
呆然としたオロメの前で、強い瞳をしたネッサがつややかに笑った。
「トゥルカスに訊いてごらんなさいな、オロメ。わたくしは彼の鼓動といるわ」
助言かどうかは分からなかったが、悩みとも言えぬもやもやに名前はつくかもしれないとは思った。
とはいえあてもなく歩きだしたオロメは、ほどなくして件のトゥルカスと行き遭った。
「おや、どうなさいましたオロメ。――浮かない顔だ」
アルダに最後にやって来たトゥルカスは、その始めからヴァラールに丁重さを崩したことはない。最もオロメに対しては、おそらく他のヴァラール以上に親愛のこもった振舞いであっただろうが。
「ネッサに」
「ネッサに?」
「……あれが踊る理由がわからないなら君に訊けと」
トゥルカスはいささか戸惑った笑い声を上げた。
「成程、彼女絡みでは貴方が浮かない顔になるのも致し方ない」
「で?」
ふむ、とトゥルカスは生真面目に頷いた。
「音楽は目に見えぬものですな」
「ああ、…?」
「聞くものです。普通であれば」
「そうだな」
オロメも頷くと、トゥルカスは晴れやかに笑った。
「ネッサが踊れば、目に見えますぞ」
あなたの音楽を「見て」と、言葉にこそしなかったものの、ネッサはそう表している。トゥルカスはそれをわかっている。
「彼の鼓動、か…」
惚気られたな、とオロメは苦笑した。つまりトゥルカスはネッサにとって、音色の乗るべき律動なのだ。
そうだ、確かに思い出したかったのは妹の音色ではない。ネッサの音色は現に見えるかたちで目の前にある。
目の前にない、今は隠されたかたちを。それを記憶から呼び覚ましたかったのだ。
「――“汝らの音楽を見よ!”と」
この美しき世界にやがて訪れる自由の民、その音色を。