王笏の回廊

 王の肖像画の背景は薄紅と決まっていた。画家は伝統と決まっておりますれば、と深く頭を垂れた。
「何故かもわからないでそうなのか」
「そう怒るものじゃない。見れば分かるから伝統みたいなものになったんだろう」
「何を見るんだ?」
「肖像画さ。王笏の回廊。おまえは行ったことなかったか」
 王笏の回廊はみどり色だった。単色ではなかったが淡色は多かった。緑、翠、碧。石の濃淡を連ねた壁に黒い艶のない額縁で、肖像画は並んでいた。
「伝記に飽きたらよく来たんだ」
「顔が見たくて?」
「結局はそうかな。気取った顔だけれど。たいてい、描かれるの、気恥ずかしいからだろうか」
「わたしが伝記と呼んでるだけで、たぶん本当はそうじゃないんだろう。良いことも悪いこともあって、誰が書いたかわからないのもある」
 手を引かれて角を曲がる。
「さあここからだ、ご案内いたしましょうか」
「語りたい相手がいるのなら」
「おまえ以外に誰がいるんだ」
「聞かない相手でも?」
「ずいぶん拗ねてるな。わたしはおまえがいい」
 はじめの1枚といっても何の変哲もない。みどりの壁、黒い額縁、薄紅の背景。
 白い服に白い花飾り、黒い髪。灰色のひとみ。
 王笏の回廊と言うけれど、王笏は無い。
「似てるだろう」
「………まあ、半分くらいは」
「半分!」
「この肖像画がどれくらい本人と似てるのか分かるのか?」
「画家の腕が今と大して変わらないのであれば充分に似てると思うが?」
「………半分で充分だ」
「はは!」
 そうだ、玉座には座っている。
「我らが始祖の君。タル=ミンヤトゥア。何考えてたか全然わからん。功績が多すぎる」
「功罪と言うだろう」
「違いない。罪科の方はよくわからない。三千年経っても、三千年経ったからかな。それでも今まだわたしとおまえが続けている幾つかの慣習は紛れもなくこの人からだ。王宮を建てたのも、都を造ったのも、人生が何度あればこなせるのかよく分からないあれこれを築いていったのも」
「人生が二度あればと思ったか?」
「一度もなくていいと思った日もあるさ」
「それは始祖王もそうかもしれない。……そうで、ないかもしれない。次は?」
 額縁の黒、背景の薄紅、白い服は変わらない。
 やわらかい微笑みを描かれているのは金の髪に銀の瞳。
「ノーリモン。わたしは好きだな」
「ほう?」
「学者なんだ、彼。正直伝記読むより彼の集めた色んな――変遷の。文化の。このヨーザーヤンに住み始めた人たちの…、うん、それが面白くて。“アセラス”って名乗ってたの、彼だ。旅が好きで、本当にあちこち行ってる」
「旅の記録はあるのか」
「あるよ。たくさん。書棚を占拠してる」
「ああ、あの。崩れそうな」
「崩れないとは思うが、でもそれで、王としてはただひとつしかしていない。王位を譲ること。史書としては在位は1年。そうじゃなかったのは息子の手紙の方でわかる」
 次の肖像画は重厚な雰囲気だった。黒髪灰瞳、最もよくある「形」のような。
「タル=アマンディル」
「胃痛王か」
「不名誉な…あぁ…否定できる材料がない…なんで知ってる」
「おれも先人に学ぶことはある」
「それは知ってる。だけど先代ぜんぶってわけじゃないだろう」
「無趣味なところが似てると」
「言われた?」
「お前に」
「わたし?そうだったかな」
「お前も大概無趣味だった」
「ああ、それも、否定できる材料がない…」
「無趣味で悪いことはないだろう」
「なんとなく寂しい気がする…」
「アマンディルは別に寂しくなかったと思うぞ」
「父も息子も破天荒で寂しがる隙はないような感じはしたな」
「おれたちも」
「ん」
「忙しい」
「………おまえと話すのは楽しいよ」
「それで、破天荒な息子がタル=エレンディルか」
 肖像画の黒髪の男は、見事な宝石のような青い瞳をまっすぐに画家に向けていた。
「アマンディルを挟んで父と息子――祖父ノーリモンと孫エレンディルの功績はほとんど王位とは別のところにある。つまり歴史と風習の点で、と言おうかな」
「本の虫が、な」
「そうだな。それともこう言えるかもしれない。“伝承の大家”として、と。まだ、星の民と親しくあった時代のことだ」
「あぁ、そうだろうな、今も親しい、西の領主殿の祖だ」
「わざわざ嫌な言い方をするんじゃない」
「英断だとは思っているぞ?」
「女王には反対か?」
「女王に、反対だと、思うのか」
「………エレンディルの長子、シルマリエン姫は西の領主に嫁いだ。バラヒアの指輪を携えて。……女王を立てておけば良かったんだ。西になんか出さずに」
「女王なら立つだろう。もう少し後に」
「そういうことじゃない」
「残念だが王位は三子のものになった」
「残念というわけじゃない…。そうだな。第三子のイーリモン。望まれた男子。星と思索の王、タル=メネルドゥアだ」
 父親よりも深く暗い目は夜空のような紺色だ。
「メネルドゥアも苦労が多かっただろうな。中つ国との付き合い方、戦乱、……息子との諍い。王に――ならなければ幸せだったろうに」
「お前の考える幸せがおれにはわからない」
「それは、……あるだろう、穏やかな、……苦しくない」
「それならそれでいいさ。――そう不幸せでもないだろう。メネルドゥアは。だいいち趣味がある」
「なに?」
「無趣味なおれたちよりよほど幸福だとは思わないか?」
「…趣味を天体観測にしようか」
「おれと一緒に?」
「おまえに六分儀の使い方を教わらなくちゃ」
「塔の上に夜な夜な集まって」
「いや、艦だ!」
「はは――毎晩星を見に船出するのか」
「星が見えなくたって船出はしたい」
「迷って帰れなくなるのはつらいな」
「迷わないくせに」
「お前がここにいるならな」
「何言ってる」
「……そういう、船狂いが、王になっただろう。タル=アルダリオン」
「わたしはエレンディスにはならない」
「もちろん」
 祖父を空、父を夜空とするならば、次の肖像画の瞳はまさしく海の色をしていた。
「……彼は、ヨーザーヤンを愛していた。それは間違いないんだ。どうしてあんなにすれ違った…」
「原因はどこにでもあるし、彼らにしか分からない。解明したとして、おれたちにはとうに手の届かない昔のことだ」
「……うん」
「今でも航海を学ぶ時はアルダリオンの航海術が基本になる。おれはそこまで船狂いにはなれないが、――恋をしていたんだろう」
「海に?……」
「そう言って良ければ」
「恋か。――恋か。あぁそれじゃ、彼女には、きっと、わからない」
「炫耀女王、タル=アンカリメ」
 その名の通りの瞳だった。焔を見ているような灰色のまなざし。
「よく……ここに来て彼女に相対すると、悲しくなった。彼女はあまりに満たされていない」
「不機嫌な美人だな。お前には似ていない」
「わたしに?良く似ていると言われるけれど」
「じゃあ半分だけ」
「半分」
「半分で充分だ」
「……そうだな」
「この不機嫌な美人の話はみんな聞かされるだろう。アルダリオンから芽吹いた、王家の血の顛末の話だ。なんだか誰もうまく反論できないで時が経って今ここに、――至る。おれとお前に」
「女王のひとり子は、わかっていたと思う。女王の焦燥も、愛も。タル=アナーリオンは、それでも戦いを選んだのだと感じた」
 母より明るい灰色の瞳はほのかに微笑んでいるように思う。
「恋は罪か?」
「時には」
「愛はどうして傷を塞がないんだろう」
「何かに変えられるものではないからだろう」
「詳細なんだ、記録が。妻たちの手記も、娘たちの日記も、もちろんアナーリオンと女王の手紙も。生者の記憶に残らない何かを愛しむように。だからわたしも感傷的になる。王笏を拒んだ娘たち、生まれる前から定められていた息子」
 指し示した肖像の男は、晴れ渡った青空色の視線を向けている。
「タル=スーリオンの正しさを今も感じる。彼はそうするしかなかった。ただひとり定められ望まれた王として、王の権力をふるうこと」
「おや。おれとしては彼は大いなる反逆者のように思えたが」
「次代が女王だから?」
「女王に世継を求めなかったからさ」
「……それも王の権力に基づいている」
 次の肖像画は煌めく銀の輝きを強く感じた。名の通りの銀の髪。遠くを見る双眸は夜の海のいろ。
「銀煌女王、タル=テルペリエン。わたしは会議を……会議の根幹を成した彼女の統治は、間違いではなかったと思っている」
「王笏を譲ろうとしなかった女王なのに?」
「王笏を譲ろうとしなかったからこそ」
「タル=ミナスティアは」
 視線の先には次の肖像画がある。女王の方を向くように描かれた横顔、黒髪の間から覗く炯々とした灰瞳。
「女王のための将、女王のための盾、――女王のための王笏だった。彼にとっては。彼の仕事は、生涯は。女王に捧げられていた。海の瞳もつ伯母に。けして届かない彼女に」
「それこそがテルペリエンの治世が彼女のものではないと言われる由縁だろう?」
「そうだ。だから、それをこそ評価するべきだろう――民は気づいただろう?王のみが政をするべきではないと」
「この男は補佐は向いていたが、…王であることに長けていたとは言えなかったな」
「自覚はあったようだよ」
「息子には舐められていた」
「潮の香を嗅ぎすぎると父を敬わなくなるのか?」
「そうかもしれない」
「おお海よ、なんたることを。ついでに好奇心を刺激しすぎではないですか」
「あいにく好奇心は生まれつきだ――だから行くのさ、海なんかに」
「東にも北にも南にも、どこまでも…」
「西へは?」
「人間観察が趣味なんだ。タル=キアヤタンは」
「うん?」
「特にお気に入りは、子どもたちの微妙な関係。史料が大変なことになってる。消したかったものと、消されてはなるものかと守られたものと、きっと葬られたものと。皮肉なことだが王家の最大の醜聞の萌芽は、他ならぬ父王の手記が最も詳しい」
 そう言われると、いっそ平凡と思えた黒髪灰目の肖像画はうっそりと笑っているようだ。
「富を求めたのは富をめぐって巻き起こる人間模様が見たかったからなんじゃないかと思うことがある。史料はぐちゃぐちゃだが、王宮の出納記録は何だかすごく詳細で……キアヤタンの個人記録と合わせて、…すごい」
「“王者の贈り物が有益であるとは限らない”だな」
「そうだ。キアヤタンは、そうなるだろうと思ってやったんだ。……愉しんで。趣味だと言った。悪趣味だが。その悪趣味が記録を残してる」
「我々の最大の禁忌!近親の者に恋をするな。だがエルロスの血筋の者と結婚しろ。ほら、恋は時には罪だろう」
「……恋、だったんだろうか」
「恋に夢を見てるな。何と引き換えにしても良い執着を恋と呼ばずにどうするんだ?」
「この醜聞は、……なんだか歯車が噛み合わないような気がするから」
「理不尽なものの歯車が噛み合うものか」
「王女アマルメは死んだ。子をひとり遺して」
「第二王子は追放に」
「裁いたのはタル=アタナミア。……大王はまだ世嗣の君。若かった。キアヤタンはその醜聞を、顛末を、アタナミアの始末を見届けた」
 肖像画の「大王」は厳めしい顔をしていた。威風堂々としたそれを見ても、黒髪はそそけだち、目には灰色の怯えがよぎるように思えた。彼の最期を知っているせいだろう。
「“大王”なんて名乗るもんじゃない」
「ほお?」
「自分で言ったらかっこわるい」
「はは」
「そういうださいこと、するなよ」
「おれがしたか?」
「……してない」
「しないさ」
「そうしてくれ」
「いい子でいるとも」
「そういう、わけじゃ、………」
「臆病者なのさ。心は強く持とう。続きは?」
「アタナミアは。……未練者アタナミアの処には西方から使者が来る。こっちは隠蔽されてる。処分はされていない。見つけた。……西の領主殿のところにはちゃんとしたのがあるだろう。いずれにせよ内容は同じ。西に幸福はない」
「暴論じゃないのか」
「ここにも幸福などない。そう考えていたら」
「西にも幸福などない。………」
「――アタナミアは。王笏を握りしめて死んだ。それでも何も問題はなかった。彼にとっても」
 優男だ。柔和な笑みをたたえた肖像画にそんなことを思った。何の変哲もない黒髪灰目。何故だかほんの少し冷淡な。
「タル=アンカリモンは父王の政策を何一つ変えなかった」
「父王の政策は、ほとんど彼のものだったから。――だろう?」
「そうだ。実権を握った世継というやつだ。それを悪いとは思わないが、大王が色んな話に事欠かないからかな、知られてはまずいことはほとんど父王のせいにしただろうな。民は単純だろう。わたしも、おまえも、よぅく知ってるように」
「ああ。知ってる」
「派手な墓と遺体の保存はアンカリモンからなんだ。世継の頃から学者達に研究させて。でも自分は素直に王家の墓に入った。おとなしく骨になってる。彼は何を保存したかったのか、時々考える」
「顔だけじゃなく、骨も見に行ったのか」
「暴きはしないさ。暴かれた墓はひとつ…」
「墓暴きが…」
「墓暴きというか――後で話す。アンカリモンは全てを手に入れた。およそ考えうる富と名誉と権力を。手に入らなかったのは不老不死。でも欲しかったのはほんとにそれだろうか?」
「違う証拠があるのか?」
「証拠はない。ないが…」
 次の肖像画はずいぶんと趣を違えていた。
 稚い雰囲気の黒髪の王の瞳は蜜のようにとろけた金色をしていて、何か願い事を言い出しそうな気配に満ちていた。
「アンカリモンがこよなく愛した……もしかしたら唯一愛したひとり子。タル=テレンマイテ。知ってるだろう?“ミスリル王”だ」
「“鉱夫の恩人”か」
「そうだな。功績はそれで間違いない」
「他には何を?」
「何も。彼の功績は言うなれば愛されたこと。彼の罪科も言ってしまえば愛されたこと。会議と顧問官たちは、力を得た。良い王だったろうな、顧問官たちにとっても…」
「お前は何が気にかかるんだ?」
「……テレンマイテは会議に出ない。……記録に、なさすぎることかな」
「会議に」
「わたしは……この時代に王の会議は成熟したと思っている。王は不在であるという方向性だが。テレンマイテの世継はやはりひとり子のヴァニメルデ。美愛女王タル=ヴァニメルデ」
 華やかな肖像画だった。金の髪が、金の瞳がそう思わせるのかもしれない。熟れ落ちる果実のような、甘い笑み。
「女王は会議を不在にしがちだったが、世継の頃はよく出ていた。父王の代理でもあったんだろう。幼すぎたけれど」
 次の肖像画を示された。似ていない。そう感じるほどに異質な肖像画。青ざめて痩せた男の、信仰に身を捧げたような震えた微笑み。赤毛に茶色の瞳。
「ヘルカルモ。彼がいたから」
 さらに次を示された。これはまた大輪の華のような男だった。豪奢な金髪、褐色の瞳。自信に満ちた笑み。
「そしてタル=アルカリン。母、父、息子。この3人はどれかひとりでは語れない。そうだな……わたしが語るなら、タル=アンドゥカルは女王の夫で、王位を簒奪してはいないという話になるだろう」
「それはまた興味深い話だな」
「そもそもアンドゥカル……ヘルカルモは執政だ。ただひとり執政と呼ばれた顧問官だ。本当に若い頃から会議に参加している。それほど優秀な男だった。そして仕方なく参加していた退屈な会議で、のちの女王たる世継の君は、彼に出会った」
「……見初めた」
「そうだ」
「夫にした」
「すぐにはそうならなかった。ヘルカルモは自分がエルロスの血筋であることを知らなかった。“そうではない”ことを理由にヴァニメルデの求婚を拒んでいる。真面目な方だなと思うのは、それを裁判記録の形で文書に残していたことだな。だからわたしが読めたんだが」
「よく結婚できたな」
「恋はこわいな。……ヴァニメルデは彼の血筋をたどり、王家の最大の醜聞までたどり着いた。死せる王女アマルメの遺児がヘルカルモの先祖だ。彼女にはそれで充分だった」
「気を持たせる言い方をするな」
「醜聞なのは、アマルメの子の父親が誰だかわからないからだ」
「………恋とは恐ろしいものだ」
「そうとも。ヘルカルモもヴァニメルデを恋うていた。……仲睦まじい夫妻だったそうだ。民間の話には残っている。少しずつ形を変えて語り継がれている。執政閣下はとても人気があったから。女王をこよなく愛し愛され、正しい政治を執り行うひとだ。……さて女王が亡くなった時、世継は誰だった?」
「タル=アルカリン」
「そうだ。息子でひとり子。何の問題もない。これは今…今の歴史家たちの間ではよく論争になる。“タル=アンドゥカルを王として数えるか否か?”……何故か王家に尋ねた者はいないな。わたしの知る限りでは。そして王家としての答えは出ている。目の前に」
「なぜ夫が継いだ?」
「当時の感覚で言えば何ら不思議なことではなかったんだろう。王笏を放棄するのとは違うが……世継たる息子がその時期を選ばなければ。実際に統治を行う執政閣下がいるのならば。………実質は何も変わらない。ヘルカルモに“肩書”が増えたくらいだ。ただ、これを言えるのはどうやら王家の感覚らしい」
「お前はちょっとずれてる」
「自覚はある……、そうその、自覚の話だ。当のヘルカルモには……タル=アンドゥカルには…受け入れ難い話だった。彼は渋々王笏を手にしたが、そこからが凄まじい。彼は王としての仕事をすべて息子と行った。祭祀もだ。あらゆるすべて、公式記録に残している。タル=アンドゥカルが正式な王ではないと誰よりも思っていたのは彼自身だ。祭祀のことも…それまでも女王と伴侶として行っていたけれど…恐怖、だったんだろう。秘書の記にあるが……、それで寿命を縮めたのかもしれない」
「なるほど、祭祀に関してはお前はここに倣ったんだな」
「……ああ」
「タル=アルカリンの気持ちはわかるような気がする」
「わたしもわかるように思う。……墓暴きの話をしたな」
「ああ」
「誰の墓だと思う」
「アンドゥカルか?」
「いいや――ヴァニメルデだ。暴かれた形跡のある墓は女王タル=ヴァニメルデのもの。タル=アンドゥカルの墓は、空っぽだ。はじめから」
「空の。……それは、また」
「アルカリンは、画家なんだ。作品として完成させたものは少ないが、そのうちの1枚はこの…父王の肖像画だと言われている」
「…………」
「――さて。アルカリンの治世は少し不思議だ。記述だけを信じるなら彼は“何もしていない”。存在だけがある。記録のそこかしこに」
「タル=キアヤタンは」
「うん?」
「王笏を譲らせただろう。父を早くとせっついた。武力があり、父を舐めてる海洋王だ。……武力で言えばキアヤタンよりもカルマキルの方が上だ」
 肖像画を見た。陽や潮に焼けた茶の髪から、睨むような灰色の瞳。
「タル=カルマキルは居場所がなかったのかもしれない」
 示された肖像画は異様だった。梟の仮面を帽子のようにずらした、美貌の白子。肌の白に融けるような銀髪と血の赤の目。
「彼は息子のタル=アルダミンが苦手だった。カルマキルはちょっと正直すぎるというか、記録を改竄しようとか破棄しようとか、そういうことは考えなかったらしい。素直に記録がある」
「カルマキルが今このヨーザーヤンにいたとしたら」
「ん?うん」
「おれの部下に欲しい」
「ぶ…!はあ、そうか。そうなのか」
「そうなんだ」
「そこについては後日話し合うとして…、そうか、カルマキルは戦士なんだな。将ではあるが」
「この父と息子に挟まれたら居場所がない気分になるだろうな」
「なるほど。カルマキルはまだ自分でつけた記録も数があるが、これがアルダミンになるとほぼ全くない。驚くほどない。処分されたのかもしれないが…たぶんアルダミンは目があまり見えていなかったのじゃないかと思う」
「お前のことだから証拠は他にもあるんだろうな。伝聞なら残ってるのか?」
「残っている。なんというか…こわい話と、かわいいのが」
「なんだそれは」
「わたしが聞きたい。むしろこの時代をこの目で見てみたい。物凄く簡単に言うと、アルダミンはこの、描いてあるだろう?仮面を色々つけていたらしく、王宮内でもほとんど顔を知られていない」
「不審人物すぎないか?」
「身長と身体つきで彼だと分からないことはなかったようだが、まあ不審だから、怖い話の正体がアルダミンということはよくあったようだ。それで、彼が仮面を付けるようになった理由だが…」
「顔を隠したがった理由か?」
「父に会うたびにぎょっとされるから、動物だと楽しいかと思って、…だそうだ」
「なんなんだこいつは。カルマキルが哀れになってきた」
「……それでその、梟の仮面だが、カルマキルが獲った梟らしい」
「………それがかわいい話だとでも言うつもりか?」
「………ええと」
 話を逸らすように次の肖像画が示される。
 濡れたような漆黒の髪、翠の双眸――左目の上に走る、傷痕。
「タル=ヘルヌーメン……それともアル=アドゥーナホールと言おうか?カルマキルはこの孫を溺愛した。まるで仕える主のように崇め、いつまでも赤子のように甘やかした。騎士のように振る舞いたかったのかもしれない」
「どこもかしこもうまくいかないな」
「全く。ヘルヌーメンには幻が見えていた」
「まぼろし」
「何が見えていたのかは定かではない。どうやら左目だけにうつるものだったらしい。それで彼は左目を抉ろうとした。その傷が残っている」
「よほど耐え難いものだったんだな」
「ままならないものだ。両目がそうなら気にもならなかったかもしれない……片方だけだったからこそ、病んだ」
「………待て、“王の左目”ってまさかここに由来するのか」
「長老がたの秘密結社の?……そうかもしれないな。ヘルヌーメンの星の民嫌いときたら、即位名に始まって政策まで徹底して、まあそうなったら地下に潜るのが人の常だから」
「それだとすると、ずいぶん丸くなったな」
「……まるいか?」
「丸いだろう。水面下でうだうだ言ってるだけで」
「……それはおまえが、思われてるほど星の民嫌いでも、法破りでも、俺様一番でもないから抱ける感想じゃないか?ヘルヌーメンの法の頃に今と変わらない活動だったのならかなり尖ったままだろう」
「なんだ俺様一番って」
「ヘルヌーメンの印象?」
「節士どもですら笑いそうな言い種じゃないか」
「まだ身近とは言えない代だからな。その俺様一番陛下の政策はアレだったが、知っての通り王の権力は絶大すぎて、まあ血生臭いことにも色々なった。この遺恨を考えると西の領主殿の態度もむべなるかな」
「だからここが苦労する」
「違いない」
 肖像画に描かれたのは、線の細い黒髪の男だ。褐色の瞳はぼんやりと虚空を見つめていた。
「タル=ホスタミア。アル=ジムラソーンはたいへん病弱だった。産声から儚く、季節のたびに具合を悪くした。ほとんど王宮内から出ることはなかった」
「“詩人王”だろう?想像力は羽ばたいていたらしいな」
「羽ばたいていたし、その…、即位名がこんなに直球なのも珍しいというか…」
 次の肖像画には、黒髪灰瞳の端正な美形が、人形でも置かれているような静寂をもって描かれている。
「彼のひとり子、タル=ファラッシオン…アル=サカルソールは海洋王だろう?」
「海洋王と呼ばれるには幾つか条件がある」
「教えてくれ」
「端的に言えば船狂い。海の男たちを束ねられるほどの。武人だ。将でもある。よく戦い、獲物は溢れるほどに持ち帰る。もちろんファラッシオンは海洋王だ。おれはあまり好きじゃないがな」
「何故?」
「ファラッシオンは賄賂に弱い」
「珍かで、うつくしい、異国のものにだろう」
「知ってるじゃないか」
「彼の父は詩人王。病弱で、外には出ない、うつくしいものをこよなく愛する“宝集めの王”、ホスタミアだ」
「貢ぎ物の相手は使者だったということだな」
「ホスタミアは頼まないしファラッシオンも命じられたわけではない。ただ…父の望むものを集めようという、それが…」
「ああ」
「それが……父の言う通りにしようという、それが……」
「ああ、良い子の印象はそれが原因か」
「崩壊するんだ。そして――わたしたちに――連なる、確執が…生まれる」
「大丈夫か」
「ファラッシオンは従順な息子だった。その日までは。その時までは。その――恋までは」
 次の肖像画を知っている。黒髪灰瞳、この黒髪が煤けたような銀色に半ば染まっていたのを覚えている。
「タル=テレムナールは。……怒られるな。アル=ギミルゾールは。不幸な生まれだったと言えるだろう。そうだろう?」
「王ファラッシオンのひとり子なのにか」
「ひとり子ではないからな」
「系譜のどこにきょうだいがいるんだ?」
「系譜の外にいるのさ。同い年の。アナーリオンの時とは違う。ファラッシオンには妻がいた。父の選んだ由緒正しき娘。恋するひとがいた。その恋を自覚して、従順な息子は消え失せた。彼は彼の幸せを追及した。彼は妻と息子の嘆きには耳を傾けなかった」
「気にしなければ良かった」
「気にせずにはいられなかった――同い年の異母弟を。父と母に愛され、自分を兄と慕う、自分より何もかも優秀な男を。自分の妻が嫁ぐ筈だった相手を」
「誤解だろう」
「あのひとにとってはそれこそが真実だった」
「哀れなことだ」
「そうだ。……哀れでならない」
「お前はあのひとが嫌いだと思っていたよ」
「嫌いだった。今も好きではない。でも、ずっと前から不思議だった。嫌いな息子を世継にしたのは何故なのか」
「答えは見つけたのか」
「……テレムナールは、異母弟を追放した。海の向こうへ追いやった。テレムナールはファラッシオンの長男だ。…だから」
「だから、長男は、捨てられなかった?」
「そうだ。――そうだろう。あのひとは、考えてしまったんだろう。気に入らない長男を追いやり、愛する次男を据えたなら。“父”がそうすることがあり得るならば。……考えてしまったんだろう」
「なるほど。愛する次男はたいへん思い上がっていたからな」
「父に愛されなかった長男は」
「どちらも良く知っているな」
「知ってる……だろうか?」
 知った顔の肖像画を見る。黒髪にけむるような灰色の瞳。憂いをまとった微笑み。
「タル=パランティア。遠見の王よ」
 彼の名はインジラドゥーン、西方の花というのだった。それはどこに咲く花なのだろうか。
「あなたは身近なことには気づかず逝かれた。それを嘆くまい!これで良かったのだ。彼は夜を得た。不孝を重ねることはない。どうか聖められた夜でありますよう」
「お前がいいなら、それでいいさ」
「……おまえがいて、よかった」
 次は――最後は。2枚の肖像画だ。髪は黒だろう。瞳は真珠の銀と黒。
「驚いた。似てるな」
「似てる。……双子みたいだ」
「双子は困る」
「わたしだって困るが、これはちょっと似すぎじゃないか」
「似て……るか?」
「おまえを見て自分に似てると思ったことは一度もないな」
「おれだってない」
「画家には似て見えるのか?」
「仕方ない。半分似てることにしよう」
「半分か」
「半分だ」
「それならいいかな」
「いいだろう?」
 肖像画を見ながら回廊の三方をめぐった。整然と並んだ肖像画は壁を埋めつくし、目の前の角を曲がればすぐに、入ってきた通路へ続く面だった。
「………最後だったんだな」
「最後なものか。遠くないうちに、お前の子のが架かるさ」
「壁がない」
「こどもみたいなことを言うな」
「アル=ファラゾーンに子はない」
「これからさ。……わたしはアンカリメじゃない。うるさいことは言わないさ。だから早く子をつくれ」
「ああ、お前はアンカリメじゃない。おれもファラッシオンではない。恋にはもう遭った」
「!…………」
「あったんだ。ジムラフェル」
「カリオン。――カリオン。恋は罪だ」
「そうだろうな」
「タル=ミーリエルに子はない」
「ならば、アル=ファラゾーンにも子はない。……わかるだろう?」
「カリオン」
「肖像画はこれで終いだ。27枚。美しいじゃないか」
「……………」
「なるほど背景は、薄紅だな」
「おまえは泣くなとは言わないな。昔から。………」
「……泣かせたい、わけじゃあ、ないんだがな」

 みどりの壁。黒い額縁。薄紅の背景。白い衣の王たち。
 金の光。
 銀の涙。
 灰色の影。