その日、マグロールがウルモを見つけた時、きらきらしたみずいろが目を射った。
ああ、マグロールは息をつくと歩み寄る。
「最近お見かけしないお姿ですね」
声をかけると、みずいろの不定形流動体…“みずたまり”はふるりと揺れた。かつて百世紀よく見た姿はウルモの得意としていた姿で、けれど最近はすっかり見なくなったものだ。
「どうなさったんですか?」
傍らの岩に腰掛けて聞くと、ウルモはしゅるりと身体をのばして、岩を上がった。
「姿を結ぶのは苦手なものでな。念を送ろうとしたら解けてしまった」
「念を……」
マグロールは手を伸ばして、みずたまりに触れる。ひんやりした身体は深々とした海の底の影の温度だと今は知っている。
「今日は海の日というのだそうで、すこし皆に海に思いを馳せて貰いたいものだと」
「ああ!」
その日、ケレゴルムはオロメが戻るなり膝の上に抱き上げられた。
「山の日だ、ケレゴルム」
「は、い、…?」
「山の日が来るぞ」
こどものように抱き上げられたのがすこし恥ずかしく、ケレゴルムは額と瞼に落とされた口づけをくすぐったがるように身をよじった。
オロメは月草と紫菫をつないだ瞳をゆったり細めた。
「ウルモがな、今日は海の日だと朝からじわじわ囁いている」
ケレゴルムはぱちりと瞬いた。
「ああ、それで」
「聞こえていたか?」
「いえその……、ちょっと、海が見たいなぁと、思うような日でしたよ」
ほう、オロメは唇をつりあげると、ケレゴルムの顔を指先で掬う。
「海に行きたかったか?」
その狩人の眼を真っ向から見返して、漆黒の瞳が笑った。
「見るなら、あなたと」
暫し、言葉がいらなくなる。唇を離して、ケレゴルムはご機嫌なオロメに計画を訊く。
「それで、山の日は?」
「山の日はな、私が朝から囁いてやろうと」
「はあ、」
「………なんだ?私には出来ないと?」
「いえ、違います!その…」
「うん?」
「“山”の日ということは……むしろアウレさまが張り切って何かなさるんじゃないかなあ、と……」
「む」
「というような事があって」
「はあ」
「私も山の日に取り組んだ方が良いんじゃないかと」
「そうですね……」
「マンウェも山のこと、アウレの木って言ってたし」
「それはそうですけど」
その日、アウレはちょこんと座った地面から、肩をいからせて立っているマハタンを見上げた。
「だから、あの。何で怒ってる…」
マハタンは分かりやすい渋面でアウレを見下ろす。
「山の日のことはわかりました。アウレのこと考えて貰おうっていうのも良いなって思います」
「だろ?」
マハタンは、ふう、と息をついた。目の前、広がる荒野は確か数日前までは見渡す限り青々とした草原だった筈なのだが。
「……それでこの火の気配は何なんですか?一体ナニするつもりなんですか…?」
「え、だから山、つくろうと」
「山」
「どっかーんって」
「どっかーん………」
「山つくるのは。最初、火だから」
「奥様ー!奥様、ヤヴァンナさまぁぁあ!アウレが御乱心です止めて!!」
「えっ。えっ?だめ?」
「だめです!」
駆けつけたヤヴァンナはごくごく冷静にこう言った。
「山の日は来年からよ」
「えっ」
「あ」
「なら今日、私がウルモさまにお会いしたいなと思ったのもそのせいでしょうか?」
マグロールが言うと、みずたまりは音もなく手を離れ、岩を離れ、見えない足元に流れ行った。
「ウルモさま?」
呼びかけて、覗き込む。岩の下で濃い青の明滅をしているそれは、言うなれば、拗ねているしるし。
「……今日、久しぶりにそのお姿で、思い出しましたよ」
みずたまりを見つめて、遠い過去の情景を見る。
「海を見せてくださったことがあったでしょう。波の音と煌めきと。……海の向こうの彼方の光。忘れられない、帰りたい、愛おしい、そういう気持ちを」
たとえば荒野で、山の上で、川を越えて、泉を離れて、夏の日照りも冬の吹雪も、……何があっても。傍に寄り添っていてくれたのはこのヴァラだった。
「辛かったと、言えばそうなのでしょうけど。消えてしまうよりは良かった。本当に」
マグロールは手を伸ばした。その手に絡みつく、百世紀の涙を溶かした海のみずいろ。
伶人の微笑みは、きっとまばゆい光になってそのみずいろに溶けている。