兄に呼ばれて行くと、フェアノールはまだ骨のほそいフィンゴルフィンの手にちいさな瓶を握らせた。薄紅色の瓶は力をこめれば割れてしまいそうに頼りない軽さで、厚みと色が複雑な花模様を描き出していた。
「よもや道が分からぬとは申すまいな」
フィンゴルフィンはすこし唇を尖らせて分かりますと反駁した。
「何度も行っております」
「そうだな」
「ひとりで参れます」
「ああ、そうだろう。……道中握りしめて割るようなことは」
「割りません」
「駆けて、落とすやもしれぬ」
「落としません」
「使いも碌に出来ぬと、」
「思わせません、決して!」
真っ向から叫ぶと、フェアノールは喉を鳴らすように低く笑った。
「さて、では転ばぬ程度に疾く行くが良い」
たどりついた白き峰の宮居では上級王イングウェが微笑んで、振り乱れたフィンゴルフィンの髪を撫ぜた。
丁度良いからそなたの髪を洗って差し上げよう、とイングウェは輝く桶にあふれるような水に滴を数粒落とす。ふわりと立ち上った香は脳裏に蒼白いほどの花を描かせる。
奏歌に似た手つきでイングウェは雫をフィンゴルフィンの頭に降らせる。
雫を纏った髪から香るそれにフィンゴルフィンが目を瞬かせている間に、薄紅の瓶に香油をとろりと満たしたイングウェは、溢れる花に埋もれていた友を思い出しふっふと笑う。
駆け込んで来たフィンゴルフィンを見て、フェアノールはまったく思い通りだ、と言いたげな顔をした。
「転びませんでした」
まっすぐ言うと、フェアノールはゆっくりと頷いた。
「それは重畳」
「兄上のお髪にさわらせてください!」
フェアノールは瓶を受け取ろうとした手を伸ばしたまま動きを止めた。
「な、」
フィンゴルフィンはフェアノールに飛びついた。髪が揺れ、香る。見上げた兄の顔は迷子のようだった。
歌を奏でるようにはとうてい出来ないちいさな手でフィンゴルフィンは兄の髪に香を絡める。
けれど満ち足りた眼差しで見つめたフィンゴルフィンの前でフェアノールは艶めく黒髪を掻きあげると、鋼の煌めきのような瞳をふと細めた。
「そなたの弟も連れて参れ。あれの摘んだ花の香だ」
フィンゴルフィンは数瞬呆けた。
「……っ、はい!」
かくして同じ香を纏った息子3人は打ち揃って父に香油を献上し、いたく上機嫌に嘉納された。
「おいで、輝みらしき我が子たち!」
フィナルフィンがきゃあ!と笑ってフィンウェに飛びついたので、フェアノールはちょいと眉を上げると、フィンゴルフィンを巻き込んで腕を伸ばした。
はじめて見る顔で兄が笑っていたように思ったが、花の香と一緒にぎゅうぎゅうと包まれて、ころがる笑い声に抱かれて、――記憶は終わっている。