フェアノオル・スケッチ『シルマリエン』――ミューズの存在
『フェアノオル・スケッチ』は12巻からなる、フェアノールの素描を中心とした作品集である。
内容は大まかに建築物、家具、道具、宝飾品、服飾、人物画と風景画に分けられる。
とりわけ数の多いのは宝飾品の部であり、通称『王の持ち物』と呼ばれる巻はフェアノールがフィンウェに贈った宝飾品の詳細なスケッチと構造メモで占められ、目録の体を成している。現存する宝飾品と比べたところ、ほぼ写真のような緻密さと明確さで描かれており、まれに違う筆跡で謎の単語が書きつけられていることから、まさに目録として使用されていたのではないかと言われている。
フェアノール家の画像資料がとみに少ないのはよく知られた事実であるが、かの有名なフェアノールの描いた七人の息子たちの肖像画の素描も『フェアノオル・スケッチ』にて見受けられる。彼らの姿そのものと、服飾と宝飾品とその全てが描かれている。
フェアノールの制作品、特に宝飾品を最も贈られ所有していたのは当然ながらフィンウェであるのだが『フェアノオル・スケッチ』にはその姿が一切現れない。これが、おそらく『フェアノオル・スケッチ』には未公開の素描が倍ほどもあるだろうと囁かれる所以である。
相手を決めて贈るものであった場合、フェアノールはその相手を素描で装わせて構想を練っていったのがスケッチから読み取ることができる。
スケッチの中で最も登場回数の多いのは丈高きマエズロスである。通称『家族』と呼ばれる巻は妻と七人の息子たちを様々に描き出したものがおさめられている。この巻のみ、素描のみならず彩色した絵等が混ざるが、一枚の紙に雑多に描かれているため分類不能だったという。
フェアノールが特に誰かに贈るわけではなく宝飾品を創作する場合、素描に描かれるのは必ず「たったひとりの誰か」であることが近年の研究で明らかになった。
とりわけ宝飾品の部にて顕著であるのだが、雑多な素描を眺めていくと、頻繁に登場するある人物の存在に気づくことができる。
顔もはっきりとは描かれず、手や足や身体のラインばかりが繰り返し現れる。柔らかにまっすぐな長い黒髪の持ち主であり、素描の中で様々に装った姿を見せる。指や爪の形、少し下がった左の肩。特徴は現れるが決定的な姿はどこにもない。
この乙女こそが本論の主眼であるフェアノールのミューズとも言えよう存在、「シルマリエン」である。
「シルマリエン」という名はかのエレンディルの祖先の姫とは関係がない。フェアノールの創作物と言えばまず何よりも大宝玉シルマリルが思い起こされる。フェアノールのミューズはきっと実在しない、美の極致のようなひとがたなのだろう、という研究者たちの漠然としたイメージから乙女は自然と「シルマリエン」と呼ばれるようになり、その正体は未だ明らかではない。
本論は描かれた宝飾品と現存する実物、書簡等から伺える持ち主の照合を合わせ「シルマリエン」の実像に迫っていく。……………