エルロスは、炎麗公家の傍系に生まれた。ノルドールの偉大なる伶人マグロールの長子だ。まだ生まれて500年のひよっこエルフである。最も、ここが中つ国であれば若いとは言われてもひよっこ扱いはされないだろう。炎麗公家と言った通りこの場は中つ国ではなく、どうやらその地と同じ次元でもない。アマン、西の果て、至福の国、さまざま呼び名はあれども、エルフの暮らす地はまさしくここである。
エルロス、その名はここにいる運命もあったかもしれない養兄の名である。
父マグロールはそれはもう立派な本が1冊書けてしまうくらいの旅と、罪と、償いを経てここにいる。エルロスにとってはただ大好きな父親だが、エルフ達の中では、ノルドールの王族であるということを差し引いても何かと話題の中心になりがちなのだ。良きにつけ、悪しきにつけ。
『エルロス』のことを良く知るのは父ばかりではない。それこそ養兄の――マグロールを親と思う者としてまさしく兄の――エルロンドは、件の『エルロス』の双子の片割れだ。
エルロンドと『エルロス』は半エルフなのだという。じゃあエルフでない方のはんぶんって何なの。と聞いたら人の子だと返って来た。人の子のことはよく耳にする。最もエルロスは人の子には会ったことがない。エルロンドの住む離れ島には人の子が逗留していたこともあったらしいが、エルロスはティリオンの都よりも東へは行ったことがない。海すら見たことがないのだ。丘の上から離れ島を見て、その端にきらきらと形を変える、あれが波だろうと見当をつけてはいるけれど。
『エルロス』は人の子になった。人の子の王の祖となった。
それがとても印象的に心に残った。
『エルロス』のことを調べたことがある。もちろん書物で、と言いたいところだが、実のところアマンに書物はそれほどない。書物よりも歌が、語りが、つまりは伝承が主流であり、正道でもある。そして伝承ということになれば、父の、仕事、お役目、生きがい、そんなものに触れずには済ませられない。
そうすると出かけていくのはコールである。ティリオンよりは西の奥にあるその館は、アマンで最も伝承と言葉と音楽に溢れている。
マグロールは伶人である。ノルドールで並ぶもののない伶人は、しかしながら世界では2番目、ということになるらしい。いちばんじゃないの、とエルロスが訊いた時、父は綺麗な笑みを崩しはしなかったが、後ですみっこでじめじめしていたと教えて貰った。父の師匠で世界で三番目の伶人殿にである。
「一番とか二番とか言いますけどね、実のところ比べようがないんですよ」
エルロスの頭をちょいと撫でて、エレンミーレは比べようがないものについて説明してくれた。歌と言葉にあふれた館を歩きながら、エルロスはこの世界が歌と言葉で出来ていると知った。父はそんな世界の根本に近いところにいるのだ。
『エルロス』のことはあまり調べられなくても、コールにいるのは心地よい。エルロスはひとりでも出かけてきて、書物を読んだり聞こえてくる音楽に耳を傾けたりする。父の歌が聞こえてくる時は、とても嬉しい気持ちになる。
エルロスの母イスタルニエ、マグロールの妻たる賢女は、目が見えない。まるっきりではないが、ほとんど見えない。彼女は父をこよなく愛し、さらさらと、せせらぎのような声で夫の名を呼ぶ。
「カーノさま、カーノさま」
「はい、なんでしょうイスタルニエ」
「わたくし、この子の眼でカーノさまが見えました」
「――え」
エルロスの記憶にある最初の両親の会話である。
母は子とのつながりがとても強い性質であったらしい。エルロスを産んだばかりの時、身体は分かれたけれども魂はくるくると手を繋ぎ合ったまま、とでも言おうか、ふにゃふにゃした赤子の時期をすっかり抜けてしまうまで、イスタルニエはエルロスと様々な感覚を共有していたようなのだ。最も目を開けていても見えてはいない赤子の頃のエルロスはそんなことは知らない。ただ見ることを知り、聞いたことの意味が分かるようになった頃、はじめに聞こえた両親の声を、無邪気に覚えていただけのことだ。
後々訊くと、父は「おまえのおかげで老けてないって証明できましたよ」と笑っていた。
エルロスは、母が父を「カーノさま」と呼ぶたびに少し不思議に思う。もちろん父の名を知っている。カナフィンウェ・マカラウレ。今、日常に使う言葉で言うならマグロールで、ただそれも長い歴史とこみいった事情からそう呼ばれると限らないことも知っている。母を筆頭に周囲の者で、父を「マグロール」と呼ぶ者はいない。けれど何故かエルロスは、日常で誰も呼ばないその名で、父を呼びたくなるのだ。
父を「マグロール」と呼ぶ非日常は、養兄と呼ぶ親戚で離れ島にいるのだ。エルロンドがそう呼ぶのだから『エルロス』もそう呼ぶのだろう。俺がエルロスだから?そう呼びたくなるのかな。そう思って、けれど誰にも打ち明けたことはない。
当たり前の日々が当たり前に過ぎてゆく。ひよっこエルフのアマンでの暮らしは、波風あってもささいなもので、大嵐になりはしない。
嵐は起きないと思っていた。このままの日々が永遠に続くのだと思っていた。
けれど生まれて500の歳月を数えたその日、エルロスは『エルロス』になった。いや、『エルロス』がエルロスになったのかもしれない。エルロスは、名を貰ったそのひとが自分であると気づいた。
気づいたとしか言い様がないのだ。
全く違うものが入り込んだわけではない。それはすべてエルロスの中にあったと確信できた。
考えすぎの妄想だとは思えない。ならば何故、どこにも語られない、どこにも残っていないこの心の軋みを、自分の一番深くで感じているのだろう。
エルロスは駆けて、駆けて、近寄ったこともない岸辺で父を見つけた。
「マグロール!」
呼んで、抱きつくと、ぼんやり波を眺めていた父は、ちょっとよろけて、それからぎゅっとエルロスを抱き返してくれた。
「マグロール、マグロール」
思いが言葉にならないのでただ名を呼んだ。父はうん、うん、と呼ばれるたびにいちいち頷いて、うずめた肩からは夜にきらめく水の匂いがした。
やがてエルロスが絞り出した言葉はきっと意味がわからなくて、それでも頷いてくれるものだから、止まり方が分からなくなる。
「ここにいるんだ」
「うん」
「会いに来た」
「うん。……エルロス?」
「そうだよ。…」
「エルロス、おまえ、」
「話したいことがたくさんある」
「うん、」
「マグロール」
「うん、…」
エルロスがいつまでもしがみついているので、父はそっと背中を撫でるようにたたく。それでも離れがたかった子に、伶人は静かに歌を唄う。
……さあ空を 見よう 私と一緒に
そして歌おう うみのうたを…
エルロスは息を飲む。――エルロス。父が呼びかける。
「泣いてます?」
「……泣いてない」
「話って、私がただいまって言える話?」
エルロスは顔を上げる。思いっきり顔をしかめて、今まで見たこともないよく知った顔で笑う相手を、見た。
「父さん」
「ええ。なんでしょう、私のかわいい子」
「――マグロール」
呼ばれて、マグロールは笑みを深くした。切ないきらめきを湛えた目が、やわらかくゆるんだ。
「おかえり、エルロス」