うみのうた/アルフィリン

 柔らかく響く子守唄は、知っている人の子の唄。それが不意にまるで聞いたことのない言葉を乗せた。エルロスはぱちりと瞳を開いた。頭を乗せた膝がびくっと竦み、唄が止まった。
「起きてたの」
 少女がエルロスを覗き込んで、とがめるように言った。
「俺が『寝ない』の、知ってるだろ」
「エルフだからって。ちゃんと寝なさい」
 不機嫌そうな声は、驚いただけなのを知っている。細くて華奢な少女の膝に重い頭を断りなしに乗せたのだから、落とされても良かった。少女はそんなことしないで、目を閉じているエルロスにしばし話しかけ、返事がないのに黙り、髪を巻き付けたり伸ばしたりして遊んで、それから子守唄を歌い出した。
 少女の一族は森の出だが、少女自身は海辺しか知らない。エルロスも良く知る岸辺に生まれ、育った。
 だから子守唄も寄せる波のような、引く波のような、海が、踊る、ような…
「なんて言ったんだ?」
 ん?と首をかしげるのに、エルロスは少し笑う。
「さっき、俺が目を開ける前。聞いたことない言葉だった」
 ああ、と少女は溜息に似た声を出した。
「ブレシルの言葉」
「そう。それで?」
 エルロスは少女を見上げる。少女はエルロスを見下ろす。灰色の瞳が剣呑に細まる。
「っで」
 膝から滑り落とされてエルロスが呻き声を上げる。
「知らない!」
 とがった少女の声だけが残り、木洩れ日が躍り、きらきら、きらきら、海の中から見るさざ波の裏のように光った。……

 そんな話をした。
 エルロスは風の中で花を抱えて立っている。
 眼前にあるのは石だ。なめらかで、冷たい、石だ。
 花が風に乗って石に降りそそぐ。はらはら。はらはら。はらはら。
 エルロスはあの言葉を口にする。意味は知らない。ただ、今言う言葉だと感じた。
 少女の父が息を飲み、少女の母が涙を流して顔を背けた。
 花が降りそそぐ。
 花を被って笑う少女はもういない。

 まどろみの中から聞こえてくる子守唄は、こどもの時に聞いたものではない。痛みの残る記憶と共にあるそれを歌うのは妻だ。もう少女ではない。
 エルロスはぱちりと瞳を開いた。子守唄が止まり、優しく額を撫でる指。
「起きたの」
「夢を見てた」
「ふうん。どんな夢?」
 ご機嫌な声は夫をこども扱いして、頭を撫で、頬を撫で、それから口づけをした。エルロスはお返しに妻をぎゅうと抱き込んだ。
 夢に出て来た、あの言葉を囁いた。
 妻は変わりない灰色の瞳をみはり、それから頬をほんのりと染めた。
「どうしたの、急に」
「むかし、お前に教えて貰えなかった」
「あれ」
 妻は少し口をとがらせた。そんな顔をすると少女の頃のようにあどけない。
「ハラディンの族の言葉だと言っていた。子守唄の最後に…歌っていた」
 妻は小さな声であの言葉を歌った。知っている通り、記憶の通りの囁く旋律。
「なんて?」
「教えない」
「……こどもたちに訊かれたら、なんて言えばいいんだ…」
「あの唄、大事なひとにうたうから、そういう意味」
 とがったような声で言うと、妻はきゅっとエルロスにしがみつくと目を閉じた。エルロスも目を閉じて、小さな声で歌いだした。
 僕と行こうよ
 海と空が出会うところ
 雲が晴れていくから
 うみのうたを唄おう
 ………あの言葉を続ける。腕の中で妻がくすぐったそうに笑った。