とくべつな羊

 波の打ち寄せる浜辺、まだ明けやらぬ朝の中、フロドは散歩に出た。
 船に居た時は聞きもしなかった海の音色を、この島ではつよく感じる。
 寄せて返す潮の響きを楽しむように、足の裏の濡れた砂の動くのを面白がっていると、少し先にしろい足が波に洗われているのが見えた。
「あ」
「あ」
 トル・エレスセアの東の海岸で海にちょっと浸って、まるでもう一度来し方を懐かしむように、遠く、遠い波の彼方を見つめていたのは、フロドの見知ったエルフだった。

「ああ、フロド・バギンズ!お早う」
「……おはようございます。リンディア殿」
「リンディアで良いよ。ビルボもそう呼ぶから」
 裂け谷の楽人エルフ殿は軽く身を屈めて足元に流れ着いた貝を拾うと、ざぶざぶと打ち寄せる波から逃れた。
「何を見ていたんです?」
「うん?」
 そのまま何となくふたりで流木に腰かけて、きらきらと明けていく朝の時間を過ごした。フロドは、リンディアが何かを見たいように時々ぎゅっと目を眇めるのが気になった。
「ずうっと東の方ばかりご覧になるから…」
「ああ、うん、…故郷かな」
 でももう眩しい、とすっかり姿を現した太陽に目を細めた。
「こちらへ来て、……帰りたいと思うのですか」
 フロドは静かに言った。エルフはそう感じないのかと思っていた。世界の西の、この至福の地では。
「帰りたいのとはちょっと違う」
 リンディアは真顔でフロドを振り向き、それから、羊がね、と言った。
「羊、」
「羊はたくさん見た。たくさんいた。私は羊飼いじゃないから全然どの羊が何なんだか分からなかった。人の子はたくさん見た。たくさんいた。羊と一緒だ。群れだった。ぼくにはとくべつな羊がいた」
 リンディアはまたふいに東を見ると、震えるように唇を曲げた。
「いたんだ」
 羊、羊、フロドはリンディアと初めて会った時のことを思い出す。馳夫さんとビルボが歌を作って、そうだ、もう一度聞きたいと言ったのはリンディアだった。羊の話はその時していた。羊の目にはほかの羊は違って見える…
「限りある命のひとが?」
 放った言葉に、リンディアは、微かに頷いた。ああ、フロド・バギンズ、あなたは賢いね。
「――私は人の子を研究の対象にしたことはない。だけど関係がないっていうのはちょっと言い過ぎた。とくべつな誰かに関わりすぎると、そのことだけがいつまでも大きく、他のことが遠くなる」
 リンディアはそう言うと、手のひらでひねり回していた貝を、ふと波に向かって投げた。
「私の故郷はあのちょっと東にある。あった。今は波の下。たぶんそう。それでずっと、私は、西に行くならきっと故郷の上を通るんだろうなって思ったら怖くて嫌だった。とくべつな羊とは遠いところに離れて住んでるんだ。そう思っていたくて、こころを騙してた。長い間…。そうしていいよって、言われたから」
 フロドは苦く微笑んだ。ああそれは何て残酷で優しい嘘だろう!
「故郷のことを思うとさみしいだろう、フロド」
 落ち着いた声に、フロドは はっと顔を上げた。リンディアはエルフらしく光にあふれた微笑みを浮かべていた。
「さみしいって偽りなく思えたから、私は海を渡ったんだ」

 浜辺を離れて館への道を登る途中、歌が聞こえてフロドは振り返った。
 だいぶ遠ざかった浜辺では、リンディアが、やはり東を見つめて歌っていた。島のあちこちで、船の着くところでたびたび聞いたその歌。聞いたことのない言葉。
 歌は切ない響きを帯びていたけれど、朝の光のように澄んで明るかった。フロドは、リンディアの言う偽りのないさみしさを理解したように思った。
 そうして少しだけ故郷に思いを馳せて、それから太陽に背を向けて、館へまた歩み出した。