(どうしてこうなった)
グロールフィンデルは呆然と眼の前のお茶会を見た。
右手にいるのはつややかな黒髪をきっちりと編み上げた、凛とした若木のようなエルフである。今は厳しい冬の朝の如き微笑みで、黙っている。裂け谷においてはグロールフィンデルの朋輩というのが相応しい、顧問長エレストールである。つい先日からは、恋人、と呼んでも良いのだったが。
左手にいるのは、奔る水のような青みのある銀髪を流した美丈夫である。細めた氷色の瞳は底を見せず、こちらも黙っている。今は無きゴンドリンの泉の宗主、グロールフィンデルにとっては親友とも呼べる、エクセリオン。
グロールフィンデルは春の雨上がりの空気の中、凍えそうな思いでお茶を一口飲んだ。
何事か幸せな夢を見ていた気がする。そんな夢で目覚めた時は何もかもが心地よい。
春のものやわらかな雨の朝は、微睡みから抜け出すのは難しい。その腕に恋人を抱いているなら、なおさらである。厳格な顧問長がグロールフィンデルの腕の中で眠るようになったのはごく最近のことで、そのつややかな黒髪を解き流したのは、実に昨夜が初めてであった。
恋人の香りだとか温みだとか、そういうものを存分に感じて、グロールフィンデルはたいそう幸福な気分でエレストールを抱き寄せよう、と、して――違和感に気づいた。
ちら、と目を走らせる。裂け谷の自室で間違いない。腕の中にエレストール。これも間違いない。
小さく息を飲む。
自分の背後にぴたり張りついて寝転び、あまつさえ腰を抱いている、この腕は、誰のものだ?
グロールフィンデルがざっと血の気を引かせたのが分かったのか、背後の男は低い笑い声をたてて起き上がった。
「お早う、お寝坊さん」
置いた手で、わだかまる金髪の先、巻いた部分をくるくると。その仕草に、その声に、覚えはあった。
「え、エ、」
横たわったまま見上げた先で、遠い記憶から立ち現われたような氷の色した美丈夫が笑う。
「ぼくを見忘れたか、グロール?」
ぼっとしてるとやられるぞ。からかう声音で続けた。
「エク、エクセ……っ」
「――そういう意味では、この子の方が正しい」
「どこのどなたさまで?」
呼びかけようとした時、逆隣から白い閃きがあった。刃を持った腕を軽く受け止め、見やったその先、険しい顔をしてエレストールが言う。
「グロールフィンデル」
「ひゃい!」
「寝ぼけてるなら起きて下さい。これは誰ですか?」
焦って裏返った声を出したグロールフィンデルを見もしないで、エレストールは問う。対峙した男は顧問長の細腕を受け止めたまま、物騒なことだ、と呟いた。
泉のエクセリオン、わたしの兄貴分で、親友の、あの、その。
しどろもどろにそう告げたグロールフィンデルを見やって、エレストールは剣を引いた。エクセリオンはそういうことだよ、と笑いかけ、顧問長の眉間の皺を深くさせた。
そうして、雨の上がりたての庭で、三人、顔を突き合わせている。
「あなたの実在も疑わしいところですが、そこを取沙汰するとこのグロールフィンデルの実在も疑わしくなってしまうので」
「そこから!?」
やっと口を開いたと思ったらエレストールが酷いことを言うのでグロールフィンデルはつい声を上げた。
じろり、と睨まれる。はいすみません。黙っています。わたしは貝のように静かです。
エレストールは常の彼になくつんけんしてエクセリオンに告げた。
「問題は、あなたが何故グロールフィンデルの背にひっついていたかってことです」
(そこ!?)
今度は心の中で叫んだがまた睨まれた。はいすみません。顔がうるさいんですね。黙っています。
「いや何、」
エクセリオンは興味深そうな表情でグロールフィンデルを見る。
「可愛い弟分を抱きしめたくなって――」
ここで目線はエレストールに流れた。
「――ところが弟分が可愛い子猫を抱いているようだから、」
エレストールの目つきがますます剣呑になった。エクセリオンがそれは見事な笑みを浮かべた。
「空いている背中に回った、ということだよ」
グロールフィンデルは何かとても言いたくなって、慌てて自分の口を手で塞いだ。エレストールが鼻を鳴らした。
「寝込みを襲うことについてお伺いしましょうか」
グロールフィンデルはますますぎゅっと口を押えた。エクセリオンの笑みが深くなった。エレストールの顰め面は変わらない。
「ずっと昔からそうだったからね。この子もそこまで気にしないだろう。ね、グロール?」
「そうだったんですか、グロールフィンデル?」
不意にこちらに話を振られて、グロールフィンデルはそっと口を押えていた手を離した。喋って、いい、らしい。
「え、と、いや、一緒に寝たことなんてな――」
「グロール?」
「……っと、そ、添い寝はそのムカシ」
あったような、なかったような。何だかわからないけど二人とも怖い。グロールフィンデルはまたそっと自分の口を手で押さえた。終わりです。もう喋りません。黙っています。
びくびくしているグロールフィンデルを放っておいて、エレストールもエクセリオンも淡々と何やら質疑応答を続けているようだった。エレストールの苛立たしさが募り、エクセリオンの笑みが冷たくなっていく。というかもう寒い。物理的に今現在この空間が寒い。
大好きな声が双方ともトゲトゲしていて痛い。グロールフィンデルはぼんやり考えた。何故こんなことになったのかは皆目見当がつかないけれど、わたしの好きなひとが二人揃っていて、なんだってこんな痛い思いをしなきゃならないのだろうか。
仲良く、ならないんだろうか。
「ぼくのたんぽぽは元気かなと心配していたけど、そのせいかな?」
ふと、エクセリオンの声が耳に飛び込んできた。
「たんぽぽ茶淹れて来ます!」
弾かれたようにそんな声が出て、グロールフィンデルはその場をそそくさと逃げ出した。
回廊で挙動のおかしいエルロンドに遭ったが、グロールフィンデルも同じくらい挙動がおかしかったのでお互いおかしなやり取りをして別れる。掌に抱えていたのは猫だったのかな。にゃん!って言ってたものな。後で触らせて貰えるかな。ぼんやり考えながら戻った。
「……金華公は礼節と品位を持ってお役目を果たされてますのでご心配なく」
戻ってすぐ聞こえたエレストールの声がとても寂しそうだった。
「エレストール」
「はい?」
グロールフィンデルは大切なひとに跪く。手を取って、見上げた顔は曇を刷いて、それが、悲しい。
「ちゃんと、お守りしますから。まかせて」
エレストールは物言いたげに唇を震わせた。数瞬あって、眉がゆるり、下がる。
「……お願いします」
柔らかな声にグロールフィンデルは微笑み頷いて、手をもう一度きゅっと握る。エクセリオンがたんぽぽ茶を注ぎながら、くっくと笑うのが聞こえた。
右手にエレストール、左手にエクセリオン。黙っているのは最初と同じだが、今は空気が格段に違う。
あたたかでやわらかい。春の花が今にも蕾からこぼれそうなふわりとした円い空気だ。微笑むと、エレストールが優しい声で訊いた。
「楽しそうですね、グロールフィンデル」
うん、グロールフィンデルは誘われたように優しい声で答える。
「好きなひとが一緒にいるって、とても幸せだなと」
エレストールは驚いたように動きを止め、それから、ほう、と息をついた。
「なるほど、たんぽぽですね…」
呟いた言葉にエクセリオンが笑う。
「だろう?」
何のことだろう。今この雰囲気なら聞けそうな気がする。グロールフィンデルは口を開きかけて、
「さっきのあれは確かに金華公で」
「そうでしょう?」
何故か、眼の前がどんどん真っ白になって――…
ぱちり、目を開いた先で、つややかな黒髪の恋人が眠る顔を見る。
(夢、か)
グロールフィンデルはやわらかな春の空気に息をつく。奇妙な夢だった。いるはずのない親友が現れて、恋人が拗ねて。……そう、エレストールは拗ねていた。今こうして考えればすぐに分かる。
つらい思いをさせたくはないが、嫉妬するほど大事に思われているのは嬉しい。
わきあがる愛しさのままにグロールフィンデルはエレストールを抱き寄せようとして。
そして、背中に感じる温もりと自分の腰に回っている手に、気づいた。