星遺
春の間近な気配を感じる頃、リンディアは住まいの外に出て、楽譜を整理しようと思った。
楽譜というのは友の考案した音楽の書き記しのことだ。とりわけ強く絶対に覚えておいてと念を押された曲はあんまりな大曲なもので、時折さらっておかなくては不安になる。こんな麗らかな陽気なものだから、光と風を感じながら奏でたくなったのだった。
以前はよく外で奏でた。友は笛を吹いたし、もうひとりの友は軽やかに歌っていた。
旋律をひとつずつ奏でながら一曲、二曲、弦が甘い気がして手を止めた。この一本、張り替えようかどうしようか。後の曲を考えれば替えてしまおう。と弦と格闘していた。
今のリンディアの住まいは海から遠いが、波の音の聞こえない暮らしはよりいっそう友を思い出す。あの頃は、友はやって来てもなんだか忙しくしていて、それをぼんやり見ながらリンディアは奏でたり、出かけるのを見送ったり、それから友の身内がひょいと顔を出すのを迎えたりしていた。
「リンディア?」
だから聞き慣れた声がした時、そちらを見もせずにリンディアはこう返した。
「ヴァリは来てないよ、小父さま!」
言って、弦をやっと張れて、ふう、と息をついた。――はっとした。
「え…」
「あ、」
顔を上げたその先で、黒髪のエルフがひとり、戸惑ったように佇んでいた。ああ。リンディアは胸を突かれたような気分になった。
「あの、……まちがえました。ごめんなさい。エルロンド卿」
ふたごって、本当に声が同じなんだな。リンディアはそう思った。
やってきた彼、エルロンドはリンディアの友ヴァルダミアの父エルロスの、双子の兄弟だ。人の子と、エルフだけれど。友の家系についてはもうぶ厚い本が一冊だか何冊だか書けるくらいの歴史がある。半エルフの歴史。ごくごく若いエルフであるリンディアは、おそろしく漠然としか知らない。
エルロンドは長い睫毛を震わせた。は、と浅い息をついた。
「――リンディア?」
「はい」
その時リンディアは、あ、顔も同じだ、とぼんやり考えていた。だけど小父さまはこう、何というか、確かに美形なんだけどこんな美人度高くなくて。
「ヴァルダミアの…」
薄ら眉尻を下げたエルロンドが言いかけ、その瞳からころりと涙を零した。リンディアはひっと息を飲んだ。
「あ、あ、ああ、な、泣かないでください」
「………っっ」
涙は後から後からころりころりと真珠のように零れ落ち、慌てたリンディアは飛び上がってエルロンドの手を取り、そっと座らせた。
「……ヴァリ、って」
「あの、あの、ヴァルダミアです。ずっとそう呼んでるのでっ」
「曲、を。リンディアが、知って、ると」
「あ、ああ預かってます!ぜったい覚えておいてって、今もさらってたところでっ」
「………、、、」
とぎれとぎれの会話をして、はらはらとまたエルロンドが涙を流すので、リンディアは困り果てた。慰め方もわからないし、大体こんなところを友と小父さまに見つかったら――まずい。とてもまずい。
リンディアは竪琴を手に取ると、すうっと息を吸って、歌い始めた。
美人は目が腫れてても美人だな、とリンディアは考えている。ちょっと鼻の頭も赤くなってる。たくさん泣いたのが恥ずかしいのかすこし顰めた眉も、きゅっと結んだ唇も、確かに知っている顔なのに、もう何もかも違う。
「これで、全部か」
その美人が訊いたのに、リンディアはぴくっと肩を揺らした。ええと。ええと? 促されるのに言葉を次ぐ。
「直しが…」
エルロンドは晴れた夜空のような明るい灰色の瞳をきょとんと瞠った。
「直し?」
何て言ったらいいのか、とリンディアは前置いた。ヴァルダミアから渡された楽譜は全部であること。けれど少し前、見たことのないエルフがひとり、やって来て。
「直した」
エルロンドはぞっとするほど平坦な声で言った。はい、とリンディアは掠れた声で答えた。
俯いて、エルロンドは震えている。震える両手が、広がった楽譜の上で、一度、ぎゅうと握られる。それからぐっと飲みこむように頷いて、エルロンドは一言、そうか、と囁いた。
そうか。上げた顔があまりに見知った強さで、リンディアの背筋をすくませる。
あの、震える声で呼びかけると、エルロンドはふっとほどけるように笑った。
「そなたはさみしくはないのか」
リンディアは曖昧な顔で黙ってしまう。友の声を思い出している。この瞳にはそのまま伝えるしかない。
「わからないんです」
エルロンドはそっと首を傾げた。リンディアは続けた。
「私はエルフで、彼は人の子で、そんなことはずっと前から分かってたんです。それで、そんな話をしたこともある。ヴァリは言いました。『きみの中で、わたしはまだ生きてるってことにしてもいいよ』生きてるのにそんなこと言うんです。じゃあねって別れる前に。船に乗る前に」
それから、―――会えなくなりました。
ああ冷たい声になったな。とリンディアは思った。エルロンドはさみしさと悲しみに寄り添う顔をしていた。
「だけど私は彼のいくところを見ていなくて、……だからぼくは、」
ぼくは。リンディアはエルロンドの瞳を見据えた。懐かしくて、違っていて、同じ瞳だ。
「彼とは今ちょっと遠いところに住んでるんだって思ったりする。だって遠いでしょう。あの島」
エルロンドはあてどなく視線を空へ彷徨わせた。ああ。頷いた。遠い。呟かれた言葉にリンディアは、ほんのりと笑う。
「――星をおくる気になるまで」
ややあって、決意したような面持ちで、エルロンドが言った。
私と一緒に来ないか。
さみしく瞬く星のような声だと思った。リンディアは頷く。
「ええ。喜んで、兄の小父さま」
「あにのおじさま」
「あ、だめですか。ごめんなさい。エルロンド卿」
「いや、だめでは…。いや。いや、だめか」
話しながら歩いた。春の空気は暖かくふたりともをくるんでくれた。
以来リンディアはエルロンドの傍にいる。
星をおくる時を、心の落ち着くところを、一緒に待っている。