彼の冠はレムミラス。
 剣に名は無く、剣技も知られぬ。

≪REMMIRATH≫
 その声は、他の誰にも真似できない響きを帯びている。憧憬という言葉で済ますにはあまりに激しい情熱と、畏れと希求と淋しさと、混沌とした愛しさに満ちている。
 平原を抜けて、木立を抜けて、歩いてきた。かつて歩いて、また駆けて、どのクウェンディよりも先に知った草原を、丘を、山を、どんなクウェンディよりもうまく――歩いた。
 金の光、銀の光。空を仰いで考えた。
 光は愛しい。けれど時折どうしようもなく、星を求めて眸が揺れる。光満ちる空の色を、深く遠い藍色になりはしないかと求めてしまう。
 星が恋しい。
 ティリオンからは星は見えない。タニクウェティルにもアルクウァロンデにも星を仰ぐ『夜』があるというのに、ただエルダールの住む都で、ティリオンにだけはそれはなかった。
 その瞳は、他の誰も持ちえない輝きを抱いている。闇にあっては強すぎる、光にあっては狂おしい、よるべない鮮やかさに満ちている。
 奇跡と呼ぶにふさわしい出来事が重なって、愛した子だった。きっと子でなければ愛することなどなかった子だった。
 丘と呼ぶには巨きすぎる斜面を緩やかに登ると、砦はかなしく屹立している。共にした民とも距離を取り、なめらかな黒――恋しい星空のような色を纏う。
 あいたい。
 砦の門が開かれる。ああ、そんなに青ざめた顔をして。
「父上」
 その声にあいたいのだ。
 近づいて、触れずにこちらを見る瞳。
 その瞳にあいたいのだ。
 星を恋うるように抱いた願いは、つまりそういうことだった。

 フェアナーロ。
 私は他に答を知らない。

「……歩いて、きた」

 砦の前で子は額づき、そうして――父の衣の裾に口づけた。

≪MAIRAPEE――アムラス≫
 兄弟の中で、多分一番冷酷なのが私だということを、片割れ以外、誰も気づいていない、――と思っていた。柔らかく微笑む祖父に会う度に、こんな情の塊のようなひとの血筋から何故私のような性質が出てくるのだろうと思っていた。
 立ち尽くす、私の隣で片割れが震えている。私は背中をさする。体温が気持ち良い。
 肩に片割れの頭が乗る。私も頭を寄り添わせる。同じ色の瞳の先では、穏やかなくせに奇妙につめたい風を受けて、白い裾がひるがえる。父が畏れるように顔を上げる。
 王をやめたというそのひとは、それでも紛れなく王だった。そして、私の――私たち兄弟の、祖父だ。
 フィンウェ。私たちの父フェアノールの愛を一身に受けるひと。
 父の祖父に対する情は狂おしく激しく、私には生涯持ち得ないだろう熱を持っていた。

 フェアノールというエルダールの最優先するものはその父フィンウェである。ノルドールのみならず、アマンに住む者は皆知っていることだった。
 溢れかえって垂れ流しの慈愛というものは、特別を作らないことで、こうも取れる。無関心だ、と。フィンウェ王の慈愛は底なしの泉のようなもので、万人に優しい。ただしこちらが期待した瞬間、その鉄壁の無関心が、酷く厳しく跳ね返る。
 特別を望んでいるだけなら父の飢えは満たされるだろう。祖父は明らかに父を特別にしている。だが、フェアノールがフィンウェに望むのは、特別であるだけでなく、一番になりたいということだ。
 無意味だ。彼に一番は存在しない。特別であるだけで不思議なことだ。
 そう思う。だが私は、それを父に伝えるすべを持たない。父もまた、それをわかることはない。

  ✵

 フォルメノスには庭が出来た。砦には必要がないものだが、祖父には必要だった。
 そしてどうやら、私にも必要なものだった。
 まだ浅い緑の中で、祖父がひとりで佇んでいる。珍しい。フォルメノスに祖父が来て以来、父は祖父の傍を離れようとしない。息詰まるほどにぴったりと纏わりついて、崇め傅き、そのくせ甘え、……よく保つものだと感心してしまう。これは慣れなのだろうか。何せ相手は、私が生まれるはるか前からあの父の父をやっている。いや、父の、親をやっている。
 父には母がいない。私たちの祖母はローリエンの銀の柳の下、けして瞼を開かずに眠る。かの方に父が甘えたことがあったかどうかは分からない。けれど父は、ミーリエル・セリンデのことを母と呼びはするが、私たちが母ネアダネルを慕うようにはミーリエルを思わない。
 それらの感情はほとんど全て、祖父ひとりに捧げられているように思える。違うような気もする。いつだったか、不思議でならないのだと、母に言ったことがある。母の答えは今でも忘れられない。
「あのひとの思いはもっと純粋で、それゆえに悲しいもの。絶対的で、知らないもの。謎に満ちていて、あまりに魅力的なもの」
 言うつもりなど無かったことだった。母はすぐに気づいて、ごめんなさいね、アンバルッサ、と言った。――愚かなことを言ったわ。
 私は愚かなことだとは思わなかった。アムロドも忘れてはいないだろう。私たちは、愚かなことだとは思わなかった。不思議なままではあったけれど。
 呼びかける前に祖父は振り返った。
「ああ。来たね」
 フェアナーロは、外に行かせたよ。さらりと言うことは全く手馴れた親の言葉。
 祖父は私に何かを告げようとしている。
 私はここでいい、と思う。近くへは寄らない。祖父はほんの少し首をかしげ、それからほんの少し唇の端を持ち上げた。アムラス。
「どこかで、自分を肯ってあげなさい」
 それが難しいなら。茫洋とした眸で、この方は、言葉ばかり酷く鋭い。
「アムロドの為に生きるのはどう?」
 私は笑う。ええ。そうですね。頷く。私はその時が来たら、アムロドの為に命を延ばす。
 気づく。この方は私たち双子に良く――似ている。
 私が好かないわけがない。

  ✵

 以前から思っていた。祖父は壊して去って行く。離れる時は確実に、何かを壊していく。
 では、来る時はどうだろう?
 答えは出ない。

 フォルメノスには祖父の部屋と呼べる場所がない。部屋はある。祖父はいない。どこにいるか。父の、部屋だ。
「フェアナーロ」
 困惑したような、呆れの混ざったような声が、扉の前でも聞こえた。
「もう起きるから。…離しなさい…」
 父は祖父を片時も離そうとしない。一日中傍にいて。眠る時は抱きしめて。

 おじいさま。知っていますか?
 その方、こどものように激しく、鮮やかな我らが父上も、私たち双子と良く似た部分がおありなのですよ。
 自分が肯えない私にはアムロドが要る。
 父上には、あなたが要る。
 私は足を忍ばせ踵を返す。祖父がそれに甘んじたままでいるのか、――壊しにかかるのか。まだ、分からない。

≪TAYIJITEE――ケレゴルム≫
 ―――生き物らしく、なった。
 不敬にも祖父に対して抱いたのはそういった気持ちだった。
 オロメさまから祖父のことを聞くたびに、俺の中では違和ばかりが強くなった。
 孫から見ても、おそらくは子から見ても、ノルドールの誰から見ても、フィンウェ王は慈愛深く冷静で穏やかな、完璧な王だった。それは俺から見ても同じこと。
 フィンウェ王は完璧で、それがゆえに生き物ではないような気が時折、した。生き物以外ではありえないような素材でつくられた、生き物ではないものに見えた。それは感情を表すとか表さないとかそういうことではなく(確かに、父も兄弟たちも、勿論自分も感情豊かな方であったから、非常に穏やかな、むしろ静かな祖父はともすれば感情が無いのかとも思えた)、ふとした瞬間のたたずまいとでも言えば良いのだろうか。――それとも、気配、だろうか。

 祖父が生き物らしくなったと思うのには他にも理由がある。色事に関する…その生気を感じる。
 恋と済ますにはもっと身体の感覚に根付いたそれは、エルダールとて心ばかりで生きてはいないのを思い出させる。エルダールは――クウェンディはとかく心の持ち様に生が左右されるのだが、身体の感覚は心を変える。
 ……祖父が、今までに恋をしなかったとは思わない。むしろ稀に見る恋多き方と呼んでも構わないのではないか。史上初の再婚者、不可思議な微笑みひとつで誰もを虜にする。次兄のように華々しく浮き名を流すわけではなく、慎ましく穏やかな雰囲気で、種族も氏族もお構いなしに称賛者にも崇拝者にも事欠かない。
 色事に疎いとは思っていなかった。清廉で慎ましやか、なのに時折、妙に手慣れたあしらいをする。ただ、その時でさえどこか茫洋とした眸は熱を知らず、硬質になめらかな肌はどんな干渉も拒むように醒めていた。
 人形は美しく他者を拒む。
 あれはアイヌアの愛を知っている。祖父に初めて会ったばかりの俺にオロメさまは言った。
 頑固な子だから、変わってしまったと言い張るだろうが、全く変わっていない。愛しい存在であるのだよ。…いつか、はっきりと顕れてくるだろう。
 湖の…クウィヴィエーネンを抱く遠き中つ国で、オロメさまに初めに名乗ったのが祖父だという。フィンウェは一度この岸を踏み、彼の地に戻り、民を率いて再び発った。どんなこどもでも必ず知っている。始めに習うそれが、エルダールの始まりだった。ノルドールを動かしたのは何だったのだろうか。率いた祖父の言葉に現わされたものは?フィンウェ自身が訴えるに至った思いは?
 幼い疑問は尽きる事無く、俺は尋ね倒した。それこそ祖父以外の者には皆。
 祖父はいつでも、俺にとっては最も馴染めない存在だった。出会ったことのない者よりも。

  ✵

 フォルメノスに移住してからも俺の生活は変わらなかった。ティリオンの離宮にいた時から同じ――館がティリオンのほとんど外に変わっても同じだ。目的もなく旅また旅。オロメさまの森に、館に居続けることだってある。家に帰ってみればたいていクルフィンと父上は工房に籠もっていて、双子は出かけていなければ二人で何かをしていて、マグロールとカランシアはいたりいなかったり、まともに出迎えてくれるのはマエズロス兄上と、母上だけだった。
 今は、兄上だけが出迎える。
 それは奇妙なことだった。王の仕事で忙しいならともかく、王宮で食事時には絶対に「みんなでごはん」を決行する方だ。このフォルメノスで、身ひとつでやって来た方に、どんな忙しいわけがあるだろう?
 おじいさまは?単純に、疑問を覚えて聞いた。マエズロスは幾分、目をそらした。答えなかった。
 フアンは裏へ駆けていったが、俺は館脇の工房の方へ行った。クルフィンに会った。
 父上は、聞くと答える。おじいさまと一緒だと。工房?いいや。
「おじいさまは工房へは近づかない」
 煤のこびりついた頬をぐいと拭うと、クルフィンはいつもの仏頂面を更に機嫌悪くしかめて、工房へ戻った。
 祖父が来たことでフォルメノスには変化が起きた。小さなことから大きなことまで。
 しばらくして、また、兄上に会った。
「困ったな」
 あまり困ってもいなさそうな声で木立の遠くを見透かしていたマエズロスは、俺が声をかけると、少し安堵したように笑った。
「暇だよな、ケレゴルム」
「うん、まあ」
 暇だけど。言うと兄上は俺の腕を掴んで庭に突入した。
「おいちょっと、兄上?」
「おじいさまと一緒にいてくれ」
「どうして」
「父上に用がある」
「それでどうしておじいさま?」
「見ればわかる」
 マエズロスはぐんぐん進む。走りたいかのようだ。
 木立の合間にふたりはいた。俺は予想していたのにうろたえた。
「なんだ、フアンが居るな。丁度良い」
 マエズロスが得たりと呟く。
 ……それは絵画のように完成された情景だった。
 祖父の、普段ならば飾り気のない漆黒の髪には、今はとりどりの細紐が絡んでいる。髪とともに花のかたちを描いたそれは、見つめればくるくると渦を巻いて引き込むよう。かの方は胸に子の頭を抱え、今、祝福を与えるように犬の頭に指をすべらす。唇に微笑みを。眸には――
「父上。おじいさま」
 俺はかつて、マエズロスの声がこんなに不粋に響くのを聞いたことがない。
 呼びかけに父上はいかにも不満そうに顔を上げ、祖父は夢見るようにおっとりとこちらを向いた。
「ケレゴルム。お帰り」
 ただ今帰りました、と言う間にマエズロスが父上に話し掛ける。兄上、本気で不粋だ。
 そうは思うが祖父はどこ吹く風で、抱きついたままの父上を忘れ去ったようにフアンを撫でる。父上が心底不機嫌な声で諾を返すと、フアンは用は済んだとばかりに身を翻した。尾が木立に消えるのを祖父は名残惜しげに見送った。
 ……あなたの胸元でもっと離れがたいのがいるようですからそちらを構ってください。切実にそう思った。
 祈りは通じず、祖父は父上を「行ってらっしゃい」と放り出すと、俺を手招いた。

 ―――生き物らしく、なった。
 向かい合って、不敬にも祖父に対して抱いたのはそういった気持ちだった。
 いかにも気だるげな様子はそれまでならば絶対に見ないもの。完璧でない。人形のような雰囲気ですら、今は奇妙なほどに生々しい。
「……聞きたいことがあるだろう?」
 俺は戸惑って唇を噛んだ。待っていたというのか?――それはあまりにも長い時間だ。
「いつか、話そうと思っていた」
 オロメさまには聞いているんです。俺は掠れた声で言う。祖父が笑う。ああ、そうだろうね。あの方は本当に優しい方だ。
「湖で、御名を聞いた」
 全身が総毛立った。祖父の口から、聞ける。今まで避けていたことを。馴染めないと、放り出していたことを。俺は言葉を追いかける。
 強く心を揺らし、目を操る、言葉を。

  ✵

「力ある御方、どうぞ、御名を!」
 フィンウェは手をのべた。そして請うた。同時に、心の中で呼びかけた。
『御名を。お答えを。私はフィンウェ。タティアールの、フィンウェ!』
 《乗り手》に似た影は笑ったように見えた。
 かげはひかり。
 その瞬間、激しい樹々のさやぎのような、胸騒ぐ闇の安らぎのような、不思議に力のこもった音楽が、調べがフィンウェの心を走り抜けた。
 これが御名。
 永遠の色をした眸がきらめく。いまや光に満ちた乗り手はふたたび笑った。
『――だが、そなたらの言葉ではこう呼ばれよう。我が名は――』
 フィンウェは何かに突き動かされるように云った。
「―――オロメ…!」
 とたん、優しく、力強い響きが星と闇とを震わせた。いんいんと残った響きが消えうせると、それを聞いた者の心の中には、安らぎが残った。クウェンディはもう恐れなかった。悪しきものを恐れるようには光を恐れることは無かった。

  ✵

 幻の彼方から帰ってくると、奇妙につめたい指が、手のひらが、俺の頬を静かに包んでいる。眼前で黒い髪が揺れる。陶器めいた、頑なな肌が見えて、その造形が見えて、――眸を見た。
 この眸で祖父は名乗ったのか。
 あまりに冴えた眸。灰色の眸は生気の混沌、だというのに纏う光は酷く冷たく。青い。
 この眸すら輝きを失う倦怠がある。すこし前は、祖父はもっと穏やかで、倦んだ眸をしていた。幻を見た俺にはそれがわかる。
 この祖父が、ノルドールを率いて湖からやってきたわけを、俺はふと諒解した。
 あこがれが、大いなる旅の原動力だという。――光への憧れ。光の希求。……誰よりも、何よりも希求し望んだのはこの祖父だった。彼の言葉は心を揺るがし、彼の眸が民を率いた。
 湖で生まれ育ったものは光に憧れた。星を見、清らな水のほとりにあってなお、もっと強い光を望んだ。それはちょうど我々が、光に育った我々が、あの闇抱く中つ国への憧れをもつように。
 俺は囁きかける。
「おじいさまはその眸の方がずっと良い」
「……どんな、目?」
 ゆっくりと祖父が尋ねる。俺は口を開く。
「生きなくては済まされない強さに満ちてる」
 希求は絶望に良く似ている。
「どんなに叶わないとしか思えない望みでも、諦めることを知らない頑なさを持ってる」
 同時に、祈りに似ている。
 この方はいつでもたやすく消えてしまえるのだ。しかも、誰にも気づかれずに、心配されずに、忘れ去られてしまえるのだ。考えて、それで俺はすこし恐ろしくなった。
 けれど「その時」は、まだ当分の間は遠いことのように思われた。祖父がこの輝きを抱く眸でいる限り、大丈夫だ――根拠もなくそう思った。
「ほんとうに、そう思う?」
 俺は頷いた。
「生きてる。その方がずっと良い」
 それじゃあ、――と祖父はしどけなく笑った。
「抗わなくては。愛しさにどろどろに熔かされきる前に」
 狂気じみた憧れを、眸に滲ませて。
 

≪ALSEYEANEE――カランシア≫
 その事件が起きたのは、今から思えば必然、当時は思いもよらぬこと。
「私は、君の、何?」
 声を荒げるわけでもなく、身体を動かしたわけでもなかった。
 ただその一言で、祖父は紛れない怒りを表わした。
「おまえにも、誰にも――隷属したつもりは一度たりとてないのだけれど?」

  ✵

 フェアナーロの顔なんて見るもんか、とこどもじみた事を言って飛び込んできた祖父は、僕にぴったりと擦り寄って、髪を指で弄る。
 ……あの事件から、数日経った。父上は姿を見せない。工房にいるのかもしれない。そういえば、クルフィンの姿も見かけない。出るに出られないのかもしれない。
 呆れるほどに父上に纏わりつかれていた祖父は、ぽつんとひとりで過ごしている。眠っていないのだと、マエズロス兄上が心配していた。それを僕は知っている。
 そして、今日、ここで、僕は祖父とふたりきりになることになった。

 あの怒りを目の当たりにした僕としては、何か妙に納得したような気分になっていた。まるで違うと思っていた祖父と父が、初めて親子に見えた。何となく嬉しかった。更に、フォルメノスに来て以来――もしくはずっと以前から祖父を覆っていた得体の知れない透明な倦怠が、今はすっかり消えている。それが何故か嬉しかった。
 祖父は僕の髪を弄りながら、明らかに愚痴を延々と呟く。僕の返事は必要としていないだろう。僕は動かない。
 短気な自覚はある。腹の底から駆け上がる熱はすぐに頭まで届く。すると、僕は感情を制御するのを放棄している。その熱は言葉に引き起こされる。行動に引き起こされる。
 常の僕ならばとうに怒って部屋を出ている。
 僕は動かない。祖父といる時だけは僕の熱は熾らない。

 鼓動の音が落ち着いてゆくのを聞いていた。
 祖父は眠った。

 寝息に耳をすますように、僕は祖父の顔をじっと観察する。
 祖父は、美人だ。それは間違いない。美の基準はおのおの違う。だから一概に美人だ、と言い切ってしまうわけにはいかないのだが、祖父の容貌に関する評価で美しくないという類のことを聞いたことがない。実際、僕自身も祖父を美しくないと思ったことがない。奇妙なことかもしれないが、容貌に関して何も思わなかったこともない。祖父だ、と認識する前に何かしら感じてしまうのだ。
整った、というのとは違う。黄金比を顔に適応して似姿を描いてみると、出来上がった顔は長兄にかなり似たものになるらしい。祖父と長兄の顔はあまり似ていない。無論、美しいと感じるということは、ある程度整っているということなのだが。
 祖父のこどもたちのことを考える。
 ……父上の顔の造作は、祖父にも勿論似ているのだが、祖母に似たと言えるだろう。夢幻の園、銀の柳の下に横たわるひとの繊細で緻密な美貌を父上は持っている。最も父上の場合、存在の苛烈なまでの鮮やかさが顔の造作を超えて溢れ出る。
 叔父たちは、それぞれに両親に似ている。フィナルフィン叔父はインディスさまに似ている。つまりはフィンゴルフィン叔父が、顔立ちとしては祖父フィンウェに似ている。
 しかし、叔父から感じる逞しさや威風のようなものは、祖父の第一印象からはけして現れてこない。体格もあろう。雰囲気や立ち居振る舞いから感じることもあるだろう。――祖父から受ける印象は、総じて少女への描写に相応しい。
 標準より心持ち大きな目を取り巻く睫毛は、驚くほど長く多いが、きわめて細い。そのせいか、きつい目元が煙るように和らぐ。唇の色の薄いのは、他の所の血の気の薄さも関係しているのだろう。瞼には蒼ざめたいろが透けていて、どこもかしこもすべるように白い肌は、思いがけない熱を帯びると、あえかな紅を刷く。耳と首筋を伝ってなだれ落ちる漆黒の髪は――僕も同じ色を持つが――滑らかに柔らかく、父上の執心にも疑問を覚えないほど見事だ。
 祖父の背はノルドール男性としては決して低くはないのだが、長身揃いの身内にあってはとりわけ小柄に見える。女性の中では極めて長身な母上や、フィンディス叔母や、ガラドリエルとさほど変わらないというのは、確かに、平均があまりに上なこの家系では小さな方だろう。
 ……家系。その家系はこの方から出たものだ。血縁の特徴を考えると、祖父に現れる形質は不思議極まりない。体格もそうだ。祖父の身体は迂闊に扱えば壊れてしまいそうに細く、薄く、軽い。自分も含めて、血色も体格も良い身内からすれば、祖父は常に病のただ中にいるようだ。
 指を伸ばして髪に触れてみる。するすると絡まりもせず指を抜けた髪は、僕のうねる髪とは違ってたよたよと柔らかく、しかし真っ直ぐに流れる。
 この髪を結えるのは父上だけだと知っている。けれどその時僕は、禁忌を犯す気持ちで祖父の髪に触れていた。小さく呻いて祖父が身体の向きを変える。左の耳をたどるように髪を掬い上げて、僕はぎくりと指を止める。
 左の耳の付け根から、首の半ばまで、そこから少し途切れて、肩の方へ続く。
 僕は眩暈を覚える。
 頭に閃くのは着飾った祖父の姿。普段はほとんど解き流した髪を美しく結いあげた姿。身体の左側を覆うように編まれなだれた髪、飾りと、露出の極めて少ない服。暑い季節にも隙のない――
 傷。いつ? ――いつから。
 耳の付け根はとても酷い。まるで一度引きちぎられたものを繋げたように、引き攣れた痕と、僅かに暗く色の違う肌が、はっきりと傷痕を示す。そこからやはり裂かれたような痕が首の半ばまで。肩に覗くのは爪か、牙か、そんなようなものの痕だ。
 指から髪が離れて落ちた。
 僕は眸が開くのを見つめていた。
 青白く血の透ける瞼がゆるゆると持ちあがった。芯に混沌を渦巻かせる冴えた灰色が、光を映して燦然ときらめく。永遠はきっと、こんな色をしている。
「その傷は、どこで」
 僕は睦言のように囁く。腕の下で、身体の下で、少女めいた容貌を、年月を降り積もらせた眸で迷わせた祖父は、薄りと微笑った。
「湖で」
「誰に」
「獣に。――おかげで死にかけた」
 言って、祖父は顔を逸らした。ぱたりと閉じた眸がそれ以上の質問を拒むようで、僕はかがめた身を起こす。
 この方は、僕よりも格段に短気で、気位が高くて、酷く美しい。それをも父上は愛し、それゆえに傷つく。
『誰にも隷属したつもりはない』
 言い放った祖父は、君臨する存在だ。本人が望もうと望むまいと、導き率い、治める方なのだ。
 どんなに愛を心地よく感じても、愛の持つ束縛には耐えられない。そのくせ失う恐怖は耐え難く。父上の持つ性質を、この方もまた持っているのだろう。僕にとってはただただ圧倒される存在である父をこの祖父は足元にひざまずかせ、振り回して、それでもまだ安心できない。…相似の鏡のように。
「……おじいさまを父上が愛せなくなることなんて、ない」
 呟く。祖父はまだ眼を閉じている。
「だから怖いんだよ。わからない?」
 祖父が身を動かす。顔を隠した左腕の隙間から、右目だけがぱかりと開いた。

≪SELEENOH――クルフィン≫
 すっかり「日常」になった父と祖父の喧嘩が、どうやらまたあったらしい。
 わたしを巻き込むのだけは、やめてほしい。
 幾度思ったかしれない。巻き込むつもりはなくても、父と工房で時を過ごすのはわたしだ。父の機嫌は動作や態度に如実に現れる。
 機嫌が良すぎるのも困る。悪すぎるのも無論歓迎できない。……祖父が来てからの父は、荒れ狂う炎嵐のよう、がんぜないこどものよう。
 わたしには知るよしもないが、実際のこどもの頃もこうだったのだろうか?
 一緒に暮らすようになってわかることもある。世間の見方は今でも一致したひとつのものだろう。フィンウェ王はフェアノールを溺愛している、と。溺愛という言葉にはもっとこう、甘やかす含みがあったと思うのはわたしだけだろうか。
 ここフォルメノスで、祖父と父の会話が聞こえるとすればそれは、今となっては十中八九口論だった。あまりに不器用にすぎる舌戦だ。マエズロス兄上に言わせれば「コドモの喧嘩」だ。
 だが結局は父が折れる。父は祖父を愛している。絶望的に。

  ✵

 父に似ていると言われるのには飽くほどに慣れたが、その言葉に少し心を刺される効果があるのも変わりはない。
 だが、似ていないと断言されるのも、こうまで心を疼かせるとは思ってもみなかった。

 祖父は近頃ひとりでいる。少し前にありえないほどに強烈な大喧嘩をしてからというものこの方、父は工房に籠もってばかりだ。機嫌は無論悪い。
 その時わたしは、いたたまれなくなって工房を出てきたところだった。
 館の方に戻るべく歩むのに、庭を抜けて行った。火と金気のあまりに強い工房を出たら、ふと香った濃い緑の匂いに無性に惹かれた。
 フォルメノスに庭が出来たのは祖父ゆえのことだ。父に四六時中付き纏われながら、祖父は種を、苗を移し、そう時間の経たないうちに中に見事な庭を造った。…門の外には出なかった。
 繁った木々の間を抜けていくと、木に凭れかかるというよりも根元に転がるように、祖父がいた。倒れているのかと思った。
 すこし焦って近づくと、ころりと転げて身体ごとこちらを向いた。――ああ、と声がああがる。
「工房が辛いの?」
 草を絡めて乱れに乱れた髪を敷きこむように、横たわったままそんなことを聞く。わたしはぐらりと苛立つ。
「居心地が悪いんです。誰かのせいで」
「あの子が荒れてるのか」
「おじいさまのせいで荒れてます」
 祖父は目を細めて笑った。
「私の行かない所で怒るなんて!」
 わたしはむっつりと黙り込む。父の気持ちは何となく分かる。父は祖父相手に我を通しきれない。本当は、父がいくら感情を爆発させようとも、この方は静かに受け流してしまうだろうけど。
 祖父は工房へは近づかない。けして、入ろうとはしない。
 なぜか立ち入って聞きたい気になった。わたしは祖父の横に座り込むと、尋ねた。
「火は、嫌い」
 返って来たのはそういう答だった。

  ✵

 エネルを突き飛ばすと、タタはただひとつ火の点らない場所に松明を押し当てた。
 さあ、もっと高く、火よ立て。封じ込めて焼き尽くしてしまえ。
 私もろとも燃えよ、燃えよ。獣どもを焼き尽くせ。

 ――その声は炎の輪を貫いた。
 一瞬静まった輪の中で、輝く炎に包まれたタタの姿が見えた。
 空に響き渡る笑い声が聞こえた。
 獣どもは熱に当たり、踊るように苦しんでいる。
 その中央で、じっと立ち尽くして動かない人影。
 炎をまとって、笑っている、それが――フィンウェの見た最期の、祖父の姿だ。

  ✵

 幻を見ていたようだった。祖父の声と共に目の前には霞んだ色の情景が浮かんだ。炎と熱に彩られたそれは、それでも、美しい闇に満ちていた。
 喉が干上がっていた。
 移り変わる光に包まれて、祖父は微笑んでいる。祖父は本当に幸せそうに微笑む。
「だからね、私のこの地への憧れは強かったよ」
 わたしはその言葉の矛盾に気づかなかった。

 しばらく沈黙が満ちた。祖父は空ばかり見ていた。一度起き上がったというのに、そっくり返るものだから、また倒れそうだ。わたしも倒れたくなる。空を見つめていればこの妙な気分も解消されるかもしれない。
 わたしは後ろに倒れてみる。
「おじいさまは、父上と四六時中一緒にいられるひとだと思っていた」
 思いも寄らぬ言葉が出た。自分の言葉に驚いて、いささかうろたえた視線で見上げれば、祖父は憂えた眸で言った。
「耐えられなくなるのは、いつだって、私ではないよ」
 静かに笑う。わたしは胸が痛くなる。
 耐えられなくなる。誰が、何に? 父が祖父の愛に? 父が祖父のつれなさに? 以前に誰が耐えられなかった?
 この至福の地で、唯一、マンドスへ去った方が?
「――それともこの間の喧嘩のことを言っているのなら」
 祖父の声に我に返る。祖父は遠くを夢見るような目つきで言った。
「…傍にいるだけなら平気だと言っておこう」
 そして、眸を閉じた。
「1日に1度は顔を見たいよ。それくらいには恋しい」
「……おじいさまの『恋しい』は信用ならない」
 身を起こしてわたしは言い返す。祖父はおや、と片目を開けた。
「賢いね、クルフィン。でもあの子はそれがわからない」
「似ていると、言われますが」
 祖父は極端に瞬きの少ない眸でわたしを見た。
「似てないよ」
 この色をなんと言う?
「似てない。全然、似てない」
「………。」
 黙りこんだわたしの前で、祖父は、ふと、とろけるように柔らかな笑みを浮かべた。
「良かった。似てなくて」
 だって私は、子じゃなかったらあの子を絶対、愛せない。
 わたしは耳を疑った。
 祖父は、ああ、星が見たい、と呟いた。
「星?」
「レムミラスが見たい――…」
 笑みのように声音もまたとろけるようで。わたしはいぶかしむ。
「レムミラスは、あなたの冠でしょう」
 その筈だった。ここへ――フォルメノスへ来た時、祖父の姿はクウィヴィエーネンから民を率いたそのままの格好だった。あまり知られてはいないが、それはエルダールの三使節の正装だ。フィンウェの正装は、白き衣に一振りの剣、そして額冠レムミラス。
 レムミラスは、冠というには変わった形状をしている。帯、と言うのが本当は正しいのだろうか。網のような星々。その名の通り、帯はところどころ網目状になっている。糸は金属で出来たように、光を当てれば輝き、七つの宝玉は小さいが完全に真球で、複雑な編みに支えられている。
 ノルドールの、フィンウェ王の王冠は幾つかあるが、その全てが父フェアノールの手になるものだ。唯一レムミラスだけが違っていて、父も、レムミラスには何も言わなかった。
 ……何も。厭うでもなく、好くわけでもなく。
 わたしは身を起こす。祖父は後ろに手をついて、ただ長いこと空を眺めていたが、やがて小さく笑った。
「そうだった」
 その眸はおそらく、遠い空と星を見ていた。

≪ELEKTRA――マグロール≫
 双子にせがまれて始めた兄の剣稽古は、いつの間にか兄弟全員が顔を合わせることになった。やりたいと言い出したのもいる。その言い出したのに引きずられて来たのもいる。兄はいささか茫然としたようだったが、ふたつ、瞬きをして、庭しかないか、と呟いた。
 庭でなかったら砦内の吹き抜けの広間でやる気だったらしい。兄は闇討ちでも教える気だったのか。
 闇討ち。はじめの歌の師匠を思い出して、私はひそりと笑う。彼の方の、相棒に対する仕打ちは大っぴらな闇討ちだ。あれは愛だろう。
 愛。
 愛することにあまりに不器用なのがこの血筋の特徴なのだろうか。
 この砦は恐れと疑いで編まれた檻。檻のあるじは、誰だか知れない。

  ✵

 金属の響き合う音に、さ、と視線の片隅で何かが揺れた。
 目の前の試合から視線を外し、そちらを向く――驚いた。
 岩と木の陰から、わずかに首をかしげるようにして、祖父がきょとんとした目で試合を眺めていた。
 フォルメノスの庭は祖父のもの。育った木々は守るように祖父を抱く。ひっそりと咲く花が、にじむように現れる芽が、季節の訪れをそっと告げる。風すら優しく歌を奏でる。この方が、アイヌアの愛を受けた存在だと思い出す。
 見ていると、祖父はすとんと岩に腰掛けて、本格的に見守りだした。私はぐるりを辿って祖父の傍らに立つ。
「珍しいですね」
「そう?」
「…戦いはお嫌いかと」
「嫌いだよ」
 口ではそう言いながら、祖父の眸は今までに見たことがないほど真剣で、……なぜか不安をかきたてた。
「試合なら良いし、必要な時に使えなくてはやはり――困るよ」
「……必要な、時」
 不安の正体を確かめるように繰り返した私に、祖父は使わないに越したことはないけどね、と囁いた。
 七人で稽古をするとなると、そのうち見ている者が減る。私を含め、兄弟たちは稽古をじっと見るよりも、中に飛び込んで体で覚える方を選ぶ。私含めと言ったが、実際最もその傾向が強いのが私だ。痛い目見ないと分からない性格、と家族皆に思われている。
 兄上はクルフィンと。ケレゴルムはカランシアと。私は双子と組んだ。乱戦を想定したとでも言えば良いのだろうか。最も実際に乱戦などは知らない。多人数の狩りでさえおそらく、及ばない。
 しかし一人で二人を相手取るのはなかなか骨が折れる。特に双子は双子らしさを――つまりそっくりさを――上手く使う。双子のそれぞれが、どこがどのように弱いかは把握しているつもりだが、試合中にはいささか混乱する。どうにかアムロド(たぶん)の剣を弾いて、食ってかかったアムラス(おそらく)を躱して、
「アンバルッサ、それじゃふたりの意味がない」
 ごく穏やかに言われた事に止まった。
 声の主は見つめる私を見返すと、やはり穏やかに続けた。
「マグロールはもう少し長い剣の方が良いね」
 首をふいとめぐらして、祖父は声を飛ばす。
 カランシア、足場はちゃんと確保しなさい。ケレゴルム、そこにフアンはいない。クルフィン、実用品にこだわりすぎない。
「マエズロス、」
 言葉を切る。七対の瞳は今やすっかり祖父を見ている。
 ここまでたいそう穏やかだった祖父は、幾分苛立った声で言った。
「左にするか、今日はもうやめなさい。――余計に痛める」
 それから祖父は立ち上がってくるりと踵を返した。
 兄が肩をすくめて「バレたか」と言った。お前たち、続けたかったら続けなさい。言い置いて、庭に溶けるように去った祖父を追い掛けていく。
 双子がくっつきあって何事か囁いている。残りの兄弟はそれぞれに黙り込み、私は、奇妙な高揚を感じていた。
 痛い目見ないと分からない。その通り、私の好奇心は救い難い。

  ✵

 祖父は剣を振るうひとで、実際に手を血に濡らしたひとだ。
 見たものもほば全くいないその事実を、私は知っていた。湖からの大いなる旅の実態――その一部を、私は確かに聞いていた。
 それでも普段の祖父を見るに、あまりに信じがたいことだとは思っていた。祖父の魅力の大部分は、そういった奇妙な不釣り合いからなると知ってはいたが。
 私は高揚した気分のまま、祖父との出会いを待ちわびていた。自分から行くのでは駄目なのだ。
 兄の腕は、実を言うとあの時にはすでにかなりの痛みだったらしい。2日経った今でも腫れが引かず、冷やして吊って、安静にしている。どうにか左手ひとつで纏めた髪があっという間に乱れて解けたのを見かけて、廊下で兄を引き止める。
「悪いな」
「さっさと頼ってくださればよろしいのに」
 小言を言いながら髪を結う。兄が苦笑して、その時、どこか違うところで弾けるような笑い声が聞こえる。
 どうしたことかと振り返ると、人影が飛び出してくる。
 軽やかに、どことなく稚さのある、少女めいた仕草で、しかし呆れるほどの気位の高さを滲ませて、祖父は私に飛びついて来た。
「フェアナーロがいじめる!」
 父が丁重な手つきで結い上げただろう髪をわずかに乱して、息を弾ませて――
 ……兄に飛びつかなかったのは、怪我を心配してのことだろう。私に飛びついたのは、この後の言い訳がたちやすく、私がそう簡単には父に祖父を引き渡さないとふんでのことなのだろう。
 そういった計算高さはこの方の意識するまでもない部分に根付いている。
 勿論、私は逃げてきた獲物を狩人に渡してしまうなんてことはしない。折角向こうから来てくれたのだ。
「では逃げませんと」
 言うと、祖父は灰色の眸をきらめかせた。
「かくまってくれる?」
「お望みなら」

  ✵

 父をやり過ごすと、私の寝台に埋もれていた祖父がひょいと顔を出す。どうせなので私は口説きにかかる。
「フィンウェ、私を恋の相手にして下さいませんか?」
 祖父は瞬かない眸で私を上から下までとくと見て、それからふうっと溜息をついてみせた。悪戯を企む笑い方だった。
「――残念。いい男で好みだけど、対象外だ」
「対象外?」
 私は首を傾げる。
「身内は対象外、ですか?」
「…いや、そうとも言い切れないんだけど」
 視線をほんの少しずらして、祖父は言い募る。今の段階で対象内なのはフィナルフィンだけかな。百歩譲ってマエズロスも一応、内。後は孫も娘も軒並み却下。外。もし身内じゃないんなら、フィンゴルフィンも、まあ、内に入ると思う。
 私は口を開く。祖父が黙る。質問の後は沈黙ばかりが支配する。
 ―――やがて。
 表情の抜け落ちた顔で、眸ばかり炯々と輝かせて、祖父は言う。
「あの子だけは、絶対に、無理」
 眸を伏せて、また上げて。微笑んだ。
「アルダの時が終わりを迎え、アイヌアの音楽が再び奏でられようとも、私はあの子と恋仲にはなれない」
 何よりも、愛してはいるのだけれど。私はもうひとつ尋ねる。
「もし、他人だったとすれば?」
 祖父は笑った。今度は自嘲じみていた。
「決まってる。愛せない。憎みもしない。――記憶すら、しない」

  ✵

「………そなたもたまには休みなさい、ね」
 言い残して、祖父は部屋を出て行った。私は窓から光の移ろう空を眺めて、星に焦がれる祖父の気持ちを考えていた。
 私は、はたして、ああも何かに焦がれることが、あるだろうか?
 不意に、どうしようもなく泣きたくなった。私は泣かなかった。

≪STAIRAPEE――アムロド≫
 父の唯一崇める方は、かつて湖から民を率いてやって来たその格好でフォルメノスまで歩いてきた、と言った。裸足のままで、そう言った。
 父は額づき、その衣の裾に口づけた。
 ぼくは震えそうになる足を励まして立っていた。アムラスが軽く背中をさすった。

  ✵

 その祖父は、庭の隅で血の気の引いた唇をして、左の手首から赤い血を滴らせて、何かに怯えていた。
 どうしてそんなことになったのかは見ていた。
 網に絡め取られた蝶のように、白い衣の彼のひとは、木々に阻まれ擦り寄られた。生い茂る緑は彼の庭。甘えが時折危険に変わる。
 最初は髪だった。枝に引っ掛け、滅多にないことに絡まった。引っ張られ、よろけた先で踏み込んだ足が茂みに嵌る。咄嗟に手を伸ばして掴んだのは蔓で、力を入れた拍子に幹から外れて降って来た。驚いて振り払った途端、しなった枝が跳ね返り、鋭く手首を裂いたのだった。

 ぼくは綺麗なものが好きだ。
 そしてぼくの身内は、不幸にしてか幸いにしてか、綺麗な存在が多いのだ。

 怪我をしたのを見てすぐに部屋を出たから、その間に何があったのかは知らない。ただぼくがそこにたどり着いた時、祖父は、あまりに蒼ざめた顔で、滴り落ちる血をじっと見つめていた。土が血を吸って違う色をしている。そこを見つめて、――そう、怯えていた。
 声をかけて、持ってきた包帯を巻こうと手に触れれば、弾かれたように身を引く。勿論、未だ絡め取られた足が、髪が、それを許すはずもなく、ぐらりと身体が傾く。ぼくは抱きしめる。血が跳ねて頬につく。なんとなく拭って、舐めた。
 ひ、と喉が鳴るのが聞こえた。

  ✵

 彼は幼い手足を必死に動かして走っていた。
 背後の闇は星の光では透かせないほどに深く、柔らかな熱を追いかける飢えた獣の臭いを濃厚に秘めていた。もっと速く。彼は乱れた息を飲み込んで駆けた。もっと速く。
 木の絡む林を抜ける。するどい木の枝がぴしりと頬を打った。繁った木々は星を隠し、闇は一段と深くなる。
 駆け抜けたその先、斜面に出会い、彼はぎくっと立ち止まった。
 獣の唸りが近づいてくる。横には抜けられない。彼は斜面に取り付いた。少し登ると木は無くなり、段になった丘に出た。
 星は。
 彼はあえいで天を仰いだ。湖は、どこ。
 足元に闇はわだかまり、さらに上に張り出した丘の斜面に遮られて、空はほとんど見えない。ねばつく闇から逃れるように、彼は丘の横面へ駆けた。急な斜面の向こうに、遠く光る星が見えた。
 だが、彼が斜面に手を掛け、足を掛け、その瞬間だった。嫌な臭いがふと濃厚に流れ、彼は背と頭に強烈な衝撃を受けた。息が詰まり、手足が重くなる。押さえられていない右腕をめちゃくちゃに振り回すと、ごわごわした毛に触れた。押しのけようとした時、左の肩に痛みが走り抜け、次の瞬間、左耳と目に灼熱感が訪れた。
 彼は叫んだ。
 逃げ始めてからずっと喉の奥に縮こまっていた悲鳴が、ようやく迸り出たのだった。
 痛みのせいか驚くほどの力が出た。獣の下から抜け出て、彼はよろめく足で数歩行き、斜面に縋るように取り付いた。登れば星が見える。登れば、湖が――…
 頭を爪だろう、鋭いものが掠めて、髪がぎりりと引っ張られる。一度は避けたが、次には背中に熱が走った。と思う間もなく、左足に噛み付かれる。
 血の匂い。獣の臭い。唸り声。頭をきりきりと苛む耳鳴り。登ろうと伸ばす手が血で滑る。熱い。寒い。足が重い。痛い。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。彼は叫んだ。目がかすむ。星が見えない。闇ばかりで――嫌だ!
「ここだ!」
 誰かが叫ぶ声が聞こえた。肩に牙を食い込ませていた獣が、叫びと共に斜面を転がり落ちた。続いて、足に噛み付いていた獣も。
「ここにいる!」
 先ほどの声がもう一度叫んだ。彼の伸ばした手を、誰かが掴んだ。血で滑り、一度離れた手は、今度は手首をとらえた。
 引き上げられて、左肩が酷く痛んだ。目の前が白くなった。
 獣の唸り声が渦を巻いて、ぐんと迫った。自分の身が竦むのと、引き上げた誰かが小さく息を呑むのと。そして、ぐい、と身体が抱きこまれた。
 獣の臭い、そして、熱。揺れた視界の隅で、火がいくつも通り過ぎていった。叫び。爆ぜる匂い。音が、遠ざかる。
 ……血の匂いがする。彼は、自分を抱きしめているのが、自分とさして変わらない子どもだと気づいた。腕に裂けた傷があり、そこから流れる血が妙に鮮やかに見えた。
「ケガ、してる」
 彼は呟いた。傷はいけない。彼は手を伸ばしてその傷に触れた。何か言われたようだったが、彼の耳には入らなかった。
 自身の手は血に濡れていたが、やることは何も変わらない。
 だいじょうぶ。
 彼は思った。相手の傷を撫でる。傷はいけない。…だから。
 彼は微笑んだ。そこで、意識は途切れる。

  ✵

 「流れ込んできた」幻は震えるほどに鮮やかなもので、覚めれば紛れもなく怯えのいろを刷いた眸が、見せるつもりなどなかったのを教えてくれる。ぼくは舌を刺すような血の味を忘れようと唾を飲む。
 小さく震える身体を抱きこんだまま、少し強引に包帯を巻いた。放っておけば血の滴りは広がるばかり。この方はそれを恐れているというのに、思考が麻痺したかのように動かない。
 髪と足を解放して、抱きしめていた腕をゆるめると、かくりと身体が崩れる。慌ててまた抱きこんで、歩けますかと聞いた。祖父はゆるゆると首を振った。震えがとめられないようだった。

 祖父の身体は呆れるほど軽い。そして冷たい。ぼくは体温は高い方で、それが気持ちよいのか、頭を預けて震えていた身体はしばらくするとほわりと緩んだ。
 そこで良いと言うので、庭から砦へ入る境の石段に腰かけている。祖父は柱にもたれて、眼を閉じている。ぼくは隣に座って、ぼうっと庭を見ている。
 祖父がやって来た時、この砦に庭はなかった。アムラスがなんだか上機嫌でぼくに飛びついてきた日、庭はまだ浅い緑色が少しあるだけだった。
 祖父が父と喧嘩するようになって、庭の緑はどんどん濃くなった。今は、生い茂り絡み合い、一部は鬱蒼と深い。幻を思い出す。夜に包まれた森は深い色をしていた。星の見えない闇に、ひかる目と、あたたかな炎と、……恐怖。
「死んだら、この肉体はどうなる?」
 囁きが聞こえた。ぼくは横を見た。祖父が言った。
「何もしないでそこに横たわったままにしたら」
 死。
 中つ国では身近なもの。至福の地では遠きもの。けれどぼくは狩人で、もちろん、獣たちの死なら沢山――見ている。
 亡骸は、食べられなければそこにある。そこで腐る。肉や内臓が溶けて、地に消えて、骨が残る。その骨も過ぎ行く時に砂になって、消えていく。
 言うと、祖父は眸を閉じたまま笑う。
「………あの子はそれを理解できない」
 泣き出しそうな声だった。ぼくは心配になる。
 ねえ、泣かないで、おじいさま。
「私の身体は」
 背中を抱いてさすった。祖父は眼を開こうとはしない。
「どうして」
 きつく閉ざした眦から、す――、と涙が零れていく。
「今頃…」
 ぼくは黙って背中を撫でていた。波打つ背中の嗚咽に混じって、微かに、この地で亡くなられた方の名が聞こえた気がした。

≪MEYEA――マエズロス≫
 その、燃えるように走った疼きを私は生涯、忘れることはないだろう。

「フェアナーロ」
 呼ばれ、父は立ち止まる。呼びかけた方はまるで真っ白な顔色をして、それ以上に呼ぼうとはしない。胸苦しいような空気が落ちる。
 渋々と、父が振り向く。祖父の姿を見た瞬間、瞳が激しく揺れる。
 弾かれたように近づいて、数歩手前で止まる。最後の距離は祖父の方が詰めた。
 額。両頬。そして指先。
 口づけを落として、祖父は微笑んだ。
「行っておいで」
 父は祖父を抱きしめた。きつくきつく、生々しい執着と、恐怖と、思慕のありったけをこめて。
「いてくださいますね」
「……他に、どこにいくと言うの」
「すぐに帰って来ます」
「………、フェアナーロ」
「――約束は、守ります」
 髪に、瞼に、手の甲に。
 口づけを落として、父は離れた。

  ✵

 父を見送って、義務は果たして、即座に私は走り出す。祖父をひとりにしてはいけない。
 声を掛けるが返事がない。悪いとは思ったが勝手に入った。予想が正しければ、返事も出来ない状態なのだ。
 暗がりに、部屋の隅に、敷布に包まり埋もれるようにして祖父はいた。震える体を、頭を、すっぽり隠して、ひとりで泣くのは淋しい赤子のよう。
 私は布の上からそっと祖父を抱きしめる。頭を撫でて、背中を撫でて、教わったことをひとつひとつ思い出す。
 ここでおやすみ。抱いていてあげるから。

 昨日、私はフォルメノスにはいなかった。一日中、祖父の使いで出かけていたのだった。まずはタニクウェティルへ、イングウェさまに手紙を届けに。そしてティリオンに、最後に、もうひとりの祖父――マハタンおじいさまの所へ。
 母にも会った。
 皆から話を聞いた。弟たちからも諸々の話を聞いた。そして今、私はここにいる。

 祖父の、色事に関する考え方がひどく明け透けだと気付いたのはいつだったろうか。冷静に考えれば、エルダールの中でただひとり、二人の妻を持ち、子は五人。色事に疎いわけもなく、その手の話題を忌避するような考えの持ち主でもないだろう。
 祖父がフォルメノスに来た時、私は驚くよりもぞっとした。祖父の選択をこうまで早めた、うまく言い表わせない、祖父と父の間の情におののいた。
 父にとって祖父は世界だった。それに、いつから色めいた気の混じるようになったのだろう。
 私は、父が、女性は母ひとりだということを知っている。母は奇妙な操立てだと笑ったものだ。父の情人は多い。二度続くものは滅多にいなかったが。
 その情の向かう先が、祖父であったと誰が知ろう?父は、自分自身気付いてはいなかったのではないか。――ある時までは。

  ✵

 ……私としても、あの虚言は、ある意味では真実なのではないかと思っている。貴方はフェアノールを愛している。そしてその愛は一部で貴方を捕らえて放さず、貴方自身もその束縛(それとも支配)を知っていて、甘んじて受けている部分があるように見受けられる。
 しかしフィンウェ、貴方は同時に、自らが何よりも解放を望む性質であるのを忘れてはいないだろうか? 初めてヴァラに会った時、堂々と、真っ向から名乗りをあげた貴方の思いは何だったろうか?
 貴方は、自ら以外に魂の主を持たない。愛する者にさえ、崇めていると思っている者にさえ、貴方は魂を譲り渡そうとはしない。その身は捧げても。
 気にかかる噂があると始めに書いた。出所のはっきりしないものだ。噂とはそんなものだが、まことしやかにフォルメノス内部の様子が囁かれる。――貴方の姿を見ることが極端に少ないと言われている。部屋に閉じ篭っているのだとも、クルフィンウェ殿が――彼が貴方を閉じ込めているのだとも言われる。貴方からティリオンへ住む者の誰かにでも、手紙のひとつもないのが余計にその噂を煽る。こちらからの手紙はクルフィンウェ殿に握り潰されているのではないかとも言われる。こちらから手紙を出したかどうかも定かでないのに。そう言われ、それを信じ込む心持ちがいささか恐ろしい。
 フォルメノスからティリオンまでやって来る者たちは、それを知ってか知らずか何も語らない、表向きは何も、だ。裏では何を言っているのか知れたものではない。
 嫌な話題ばかりですまない。けれど私が言わないと貴方の耳には届かないだろう。私が言ったとて、貴方が聞き入れたことはほとんど無かったが。……誤解しないでほしい。最後には、貴方が幸せであればそれでいい。湖の頃から、そうだっただろう?
 手紙を書いたのは心配だからだ。噂のことよりも、それよりも――貴方と話したあのことだ。手紙を渡すのに気を遣ったのもそのせいだ。これまで記したことならば、誰にどう見られても構わないだろう。だがもし彼がこれを読み、心乱され、あのようなことになったら傷つくのは貴方であり、彼だと思う。私はそうなるのが怖い。
 貴方は今幸せか。それが聞きたい。……

  ✵

 凍りつくように冷たい水を浴びて、祖父の身体はいよいよ冴える。熱を見捨てた身体に、情痕さえも傷の色に落ちる。
 私の身体はちゃんと朽ちるだろうか。
 呟く。それ以来、私たちは無言だ。
 白い、一風変わった衣。選んだのは正装だ。ほんのわずか目元だけが赤く、後はどこもかしこもつめたい肌をした祖父は、粛々と衣を身に纏う。

 そして、祖父はそれを手にする。
「……レムミラス」
 囁き、飾り帯をいとおしむように口づける。
「ねえ、マエズロス。これは星であったのだよ」
 こちらを向いた祖父はいつもの――本当にいつもの笑い方をしていて、私は息が詰まる。
「クウィヴィエーネンでごらんになったのですか?」
 搾り出すように聞いた問いは、柔らかな笑みで受け止められた。
「いいや。レムミラスは私の星だもの。湖にいた頃は空になかったよ」
 これは王冠ではないからね。祖父は言い、帯を巻く。漆黒の髪を絡め、星の輝く夜を戴く。

  ✵

 夜が、来る。

  ✵

 ……どうか、私が今感じている幸福をそんなものは違うとは言わないでほしい。知っての通り、たいそう歪んでしまっているけど、愛しいのだけは変えられないのだから。祝祭には行けない。それも許してほしい。ただあの子は何としてでも行かせるから、それでどうか、良しとしてほしい。
 私は自分が王であるとは思っていない。一族には会いたくない。私の都があの子を拒むなら、あの子を容れる私がどうして王などでいられようか。
 あなたの言う通り、私は誰かに繋がれることなど出来ない。それはミーリエルも同じこと。私はとっくに知っていた。ただ、考えないように、忘れてしまうようにしていただけだ。答なんかとうに出ている。それでもただ、傍らに居られるという幸福を、捨てきれないだけだ。
 ここは檻のようで、箱庭のようで、ただ共にゆっくりと朽ちていくのなら、それでもいいと思える。
 最後まで共にと、いつだって、私はそれしか願っていない。そう思うのが幸福だと感じる。笑わないでほしい。愛しいんだ。あいたいんだ。
 答は他に持っていない。……

  ✵

 ランプを降ろして、私は振り返る。
 消えない血に浸った扉を、階を、――そしてその上に輝く星を、見た。
 レムミラス。
 そうなのだとわかった。

 おじいさま。
 かの星は、あなたの頭上に、ほらあのように、輝いています。

  ✵

 丘と言うには巨きすぎる山の上に、フォルメノス――北の砦はあった。

 なだらかな稜線は、山の頂上に広い平原を抱いていた。フェアノールは、ティリオンを出て、ひたすらに駆けて来た。振り返ろうとは思わなかった。駆けて駆けて、ついに止まって、大地に接吻するように頭を垂れて、叫んだ。
 フォルメノスの大地が彼の叫び声を聞くのは初めてではない。

 やがて顔をあげて、彼は空を見た。
 金か、銀か。
 それとも――、……星、だろうか。