エアルウェンは『白鳥乙女』という異名こそあるものの、名から想像するような姫君からは逸脱した行動をすることが多々ある。――着飾った時の美しさは異名に違わぬものではあるのだが。
今日のこれもそうだ。夫とちいさな息子を岸辺に置き去りにして、彼女はすっかり波の下に潜っている。
白鳥の背中によじのぼろうとしたフィンロドがぺしゃんと転んだ。
フィナルフィンは白鳥の群れる海の波間を眺めていたが、息子の憤慨したような声に振り返る。
「え、なに?」
「のぅー!」
「挑戦好きだなあ!かわいい…っ」
「お前最近それしか言ってなくないか?」
「だってかわいいんだもの!私とエアルウェンの子ちょうかわいい!」
甥が可愛いのは認める。妹も可愛い。義弟の顔は可愛くなくはない。
私の妹エアルウェンは父君の掌中の珠で、それはそれは過保護に育てられてきた。
海に関すること以外はだ。海に関連することだけは何故か父君はまるまる口出しも手出しもしなかったので、妹は他の鬱憤を晴らすかのように私に付いてきた。結果、普段は男装だし(父君はとても複雑な顔をした)、民の誰も、妹が男のする仕事のすべてをやってのけるということに疑問を持つものはいない。
「うちの娘どうしてあんなに格好良くなってしまったのだか」とぼやいている父君に「嫁の貰い手が見つかるか心配です」と真面目な顔して返したのはそう昔のことではない。父君は半泣きになった。
件の妹の貰い手であるフィナルフィンだが、アルクウァロンデにやって来たのは最近のことではない。ずっと昔、と言っても良い。
熱烈に切望して、まだちびだというのに「ノルドールからの使者」という名目を掲げてやって来たフィナルフィンのお目当ては最初は確かに妹ではなかった。というよりもむしろその頃、フィナルフィンとエアルウェンは姿を見かけたことすらなかった筈だ。掌中の珠は大事に秘蔵されていた。
そのちびで泣き虫でお喋りな金髪のノルドの王子は、負けん気と言うよりは挑む心が旺盛だった。すぐ泣くしよく騒いだが、やってみないうちから諦めることは一度もなかった。
わりと最近「泳ぎ教えて!」と全身ずぶ濡れで飛び込んで来た日には「そのまま海に落ちて来い」と蹴り出したが、当然諦める筈はなかった。
「お前、潜れるだろう」
「潜れるけど泳いだことなかった」
「……器用な奴だな」
泳ぎを覚えたかったのは妹に会ったからだと知ったのは、すっかりファルマリ並みに泳げるように鍛えてしまってからのことである。
「乗れたぁ…」
感涙にむせぶような声と小さな拍手が聞こえてきてはっとした。見れば甥はとりわけ大きな白鳥の背中に座るのに成功していて、義弟はわなわなと震えていた。
「のぇたー!」
フィンロドはごきげんに叫んだ。白鳥の背中に乗ろうとするのは実は妹も自分も挑戦済みである。フィナルフィンはしていなかったような気がする。
「わ、たし、エアルウェン呼んでくるっ!」
そう義弟はこらえきれない声で告げると、瞬く間に帯やら上衣を翻し散らして、見事な姿勢で海に飛び込んだ。
フィナルフィンが波を揺らして飛沫を上げたと同時に、フィンロドを乗せていた白鳥が身震いした。もちろん、乗っていた甥はころりと転げた。
落とされたのには不満も見せず、フィンロドは、母親似だがそれだけでもない零れそうな瑠璃の瞳をまんまるにして海を見た。白鳥は悠々歩いて海に滑り込んだ。その先で、きらきらした金髪が波間に浮かび上がるのが見える。
「ちっちぇー、いっちゃー」
「決めたら飛び込むタチなんだよ、お前の父君と母君は」
「とぶ?」
「飛ぶと決めたらそうしそうだ。お前もな」
甥のふくふくした頬をつんと突いてみると、フィンロドはきゃあ!と声を上げて笑った。
「お前が海に挑戦する日もそう遠くないんだろうな…」
白鳥たちが一斉に羽ばたいたその波の遠く、輝く金と銀が寄り添うのが見えた。