あまりに鋭い創傷のようなひとだと、思った。
いちど気づいてしまえば、今までなぜ気づかなかったのか分からないほど、それはちりちりと痛み心に根を張る。忘れ去ることができない。
「此度の実りの祝いと共に、もうひとつ祝い事がある。わが長子クルフィンウェと匠マハタンのひとり娘ネアダネルとの婚儀が決まった。どうか皆、それも祝ってほしい、まことに喜ばしきことなれば」
クルフィンウェ、と父が呼ばわるのを聞いた。父の隣に立つのは――あのひと、だった。
はらはらと、歌う、ような。
「―――こども」
そんな呼びかけをされて、フィンゴルフィンはぴくっと立ち止まる。
奥宮から広間に続く歩廊には柱が多く立ち並ぶ。柱の陰に立つ人影が、そんな公子にふたたび声を飛ばす。
「酷い格好だ」
フィンゴルフィンはむっとして、同時に少し顔を赤くした。祝祭の装いは走り回ったせいであちこち乱れ、髪もくしゃくしゃだった。自覚があっただけになおさら恥ずかしい。
「どなた、でしょうか」
ぐっと腹を据えて、フィンゴルフィンは声の方を仰ぎ見た。そして小さく息を吸ったきり固まった。
懐かしい知らないひと。後から考えればそのような言葉が良く似合う。けれどその時のフィンゴルフィンはただ、目の前のひとに見とれていたのだ。魅入られた――ひどく危険で、ひどく愛しいその眼差しに。
そのひとは、陰の中でも射すくめるような瞳を細めて言った。
「それでは仕立てた者が泣こう」
手が伸ばされる。光を吸い込むような漆黒の髪がさらりと流れ、次の瞬間にはフィンゴルフィンはぐいと陰の方に踏み込んでいた。白く大きな手が衣を整えていく。乱暴なくらいに手際良く――。
「公子には見事に装ってほしいもの。…この有様では王も嘆くぞ」
フィンゴルフィンは唇をきゅうっと噛んだ。渦巻く心は、目の前のひとの「王」という響きに含まれていたものには気づかなかった。
「父上は、私のことでなくても疾うに御心を悩ませておいでです」
拗ねた声で返した言葉に、いっそ狼狽したのは、どちらもだった。
「――あの方は、そんなに」
そのひとは不思議に表情をゆがめた。フィンゴルフィンはぎくりとした。
「でも、」
とっさに違う、と言おうとした口は、決して言うことの無かったことを紡いだ。
「私には、父上はたださびしいように見えます」
「さびしい…」
そのひとが繰り返す。フィンゴルフィンは頷いた。周りの者は皆、父フィンウェの悩みの種はもっと別のことだと言ったけれど、フィンゴルフィンの目にはいつでも、父はただ、さびしくて仕方ないように見えた。母や姉や自分が居る時でも。母が見ていない時は、更に。
目の前のひとにも同じ「憂い」が深く被さっていた。呟く。憂いに満ちた声――。
「淋しい――か」
フィンゴルフィンは、傷だ、と思った。このひとは、あまりに鋭い創傷のようだ。鋭すぎて、傷であることにすら気づかないのだ。
きりきりと、痛む、ような。
とりとめのない話をしながら、彼は自分の髪紐を使って、フィンゴルフィンの髪を編んだ。薄く透きとおるような素材の紐は、彼の髪には良く似合っていたが、フィンゴルフィンの青みがかった黒髪にも良く添った。
これでまあ良いだろう、と眉をしかめつつも手を止めた彼に礼を言うと、フィンゴルフィンは「一緒に父上のところに行きましょう」と誘った。というのは控えめな表現で、本当の所は連れて行く気満々で、彼の衣の裾をしっかり握りしめて離さなかったのだ。
すると彼はいっそう眉間の皺を深くして言った。こどものように衣の裾を引き戻しながら。
「隠れていた者を無理に引き出すものではない」
「隠れていたのですか?なぜ?」
純粋なこどもの問いに、こどものような大人は一瞬、絶句した。
「………私は王に用があるが、そなたの母御とは顔を合わせたくないのだ」
フィンゴルフィンは手を離すと、懇願するように彼を見上げた。
「なら大丈夫です。母上は今、タニクウェティルにお出かけです。私以外みんな連れて」
「おや」
彼は冷たく片頬をゆがめた。
「それは、珍しい」
その表情とは裏腹に、短く区切って言われた言葉はそう冷たい響きではなかった。
ふいと視線を逸らし、遠くを見つめる彼の横顔をフィンゴルフィンはじっと見た。また憂いの帳がおりてくる。そう感じて、ああ一緒にはいけないのかと思い、はっとした。
「お名前を――」
聞いていない。
彼はいっそきょとんと目を見開き、それから皮肉気に唇をつりあげた。
「そなたの父上に聞くがいい」
どきどきと、弾む、ような。
フィンゴルフィンが父フィンウェを見つけた時、フィンウェは装いの道具を眼前に広げて、しおれた花のように黙っていた。呼びかけるとゆっくりと顔をこちらに向け、ああ、と笑った。
「綺麗にできたね。誰が――」
フィンゴルフィンの頭を撫ぜ、フィンウェは突然言葉を失う。
「……誰、が…」
茫然と繰り返した父に、フィンゴルフィンは先ほど会った彼のことを語った。
答えを返さずに、急いてそこを立ち去った父の後ろ姿を、フィンゴルフィンはあっけにとられて見送った。心の浮き立ちは不可解に甘い疑念に鎮められた。
さやさやと、囁く、ような。
「兄上、だったのですね。私は、ずっとお会いしとうございました!」
ざわめきを縫って駆け寄り、フィンゴルフィンは呼びかけた。彼がまっすぐに向き直る。彼は――フェアノールは、不思議に薄い色の瞳でじっとフィンゴルフィンを見つめていたが、不意にごく静かに言った。
「ご機嫌よう、わが弟殿」
呆然と見上げる視線の先で、冷たい虚無がフェアノールの面に広がった。
「そなたの半分の血を私は憎む。だが」
瞳からはまるで今にも何かが溢れ流れ出しそうだった。
「それがどちらの半分なのかは、私自身も知らぬこと」
言葉は胸に根を下ろした。
今でさえ、ちりちりと、――痛む。けれど、痛みすら今では甘美な香りを放つのは、なぜだろうか?
答えは、フィンゴルフィンはとうに知っているのだった。それは思いの問題なのだった。祝祭のざわめきの中で突然にひとりであると感じるのにも似た。
ただその時、去っていくフェアノールにフィンゴルフィンは呼びかけた。
「兄上、」
少年の声は遮るものなく真っ直ぐに響いた。
「兄上、どうぞ――ご機嫌よう」
フェアノールは振り返った。微笑んだ。
思いの名だけは、まだ知らない。