祝祭日だった。浮かれていた。
マハタンは、ティリオンの都を出てカラキリアを歩みながら、ふと大声で笑いたい気分になった。遠い海が光る。ざわめきが遠ざかる。風が吹く。
――立ち止まる。目の前にいるのは、銀の髪したクウェンディ。
「……あれ」
酔っているのか、いつもの夢か。マハタンは片手で目をこすると、彼に呼びかける。
「…ノォウェ、殿?」
ためらいがちな呼びかけはそれでもいつも喜色をにじませていて、どうやら実際聞いているわけではないその声が、キアダンはとても好きだった。
灰色港にたたずんで、キアダンは沖を見ていた。
ホビットたちはそれぞれに家路をたどり、船は見えず、彼はひとりきりだった。
あの時も残った。今も残っている。けれど、きっと――最後の船はそう遠くはない。近いとは言い難いが。
そう思ってきびすを返す、と目の前に、待たせている人がいた。あかがねの髪持つ匠。
「マハタン殿…」
どうしてここに?問う声が重なって、ふたりは同時に吹き出した。
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マハタンとキアダンは「夢で会う仲」だ。
便宜上「夢」と呼んでいるが、はたして夢の小道を共有しているのか、はたまた何か別の要因なのかは、マハタンにせよキアダンにせよ分かってはいない。ヴァラも口を閉ざして語らない。
ただこの不思議は双方にとって嬉しいことだったので深くは考えず、――今に至る。
触れることはできないが、見えも聞こえもする。自分が相手の方へ行っているのか逆なのかはその時々によって違う。そんなものかと受け入れてはいたが、今日のこれはとりわけ不思議だった。キアダンは灰色港にいる。マハタンはカラキリアにいる。
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会う。話す。それだけだが、あの遠い湖でたった1度だけ会ったひととこうして話すというのは、時が経ち多くの出来事を見る中で、自分を保つ助けになる。どちらにとっても。支えて支えられて、そうしてふたりは長い時を生きたのだ。少なくともキアダンはそう思っている。
「酔っているのか」
問うてみれば、マハタンはふっと息を吐いて薄りと笑う。
「祝祭だった。飲みすぎたかもな」
あなたは、と訊くような目をする。キアダンは目を伏せる。脳裏に、あの光に滲むように遠ざかった船がよぎる。
「……じきに、そちらへ船が着く」
「そうか」
受け止められた気がした。ただ在りのままに。
「ではまた祝祭だ」
言われたことにキアダンは泣きたくなる。
「ああ。どうか祝ってくれ」
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待つ身には長いこともある。けれども送り出す身には、この時の流れはいかばかりか長く感じられることだろうか。俺は定命の『彼ら』を知らない。マハタンはそう考える。
目の前の彼はすっかり「老人」という姿かたちをしていて、それはかつてこの地を旅立ったマイアールのとっていた姿と良く似ている。おそらくはその髭がそう感じさせる原因だろう。マハタンは、彼の髭を触ろうと手を伸ばして――ああ夢だった、と諦める。代わりに自分の顎を触って、短い髭を確かめてみる。
「またずいぶんと伸ばしたものだ。俺には出来ない」
ぽつりとそう洩らすと、キアダンはむうと唸った。
「いや、そろそろ落とそうかと」
「うん?」
「概ね済んだから」
そういう彼の瞳はちっとも老いた者のようではない。かつて生身でまみえた時と同じように、生き生きと、深く根ざした信念を持った色をしている。
「済んだ、か」
視線を落として、マハタンはそう言った。済んだなら…、言いたいことが喉もとにまでこみあげてくるのを抑える。そうだ。送り出す身にはいかばかりか。
+++ +++
「まだ、送る者がいる」
耳にすべりこんだ声に、マハタンは目をあげた。
褪せた苔の色。好きな色だ。そう思いながらキアダンは言葉を待った。
「まだ」
繰り返して、彼は口をつぐんだ。すう――と目が閉じて、そして。
開く。
この上なく鮮やかに、マハタンは笑った。
「待ってる」
どきりとした。それが何なのか捕らえそこねて戸惑うキアダンに、彼は更に続けた。
「待ってる…まだ、あなたには、あえる……――海を越えたら――」
続く言葉を聞かないままに、姿は薄れる。夢が、覚める。
+++ +++
遠き岸辺に彼がいる。
それを思うだけで心が満ちる。
夢から覚めれば、この心を抱くのは自分ひとりきりだとわかっていても。