「ケレブリンボール」

 その日、エルロスは庭を見ていた。庭と言っても、北側の、海ではない方、森から続く門を抜けての広場と言っても良い。館のつくりからすれば前庭にあたるのだろうか? 空は充分に明るいが、空気がゆったりと澄んで、森は影色を強くして、つまりは間もなく日が暮れようとしていた。
「エレイニオン!」
 庭から突然、声を聞いた。エルロスは窓から身を乗り出して声の出所を探した。知らない声だった。
 地上の薄闇の中に黒っぽい人影を見つけた、時にはもう館から、ギル=ガラドが駆けていくのが見える。こちらは明るい色の衣だったから、よく見える。
「エレイニオン、やった!」
 人影も走り出した。フードの影からもう一声叫ぶ。
「やった、通してくれるって! いいって!」
 駆けていったギル=ガラドの手をそいつがぎゅっと掴んだので、エルロスは「なに?」と思った。おそらく口からも出ていた。
「本当?」
「ほんと!」
「やった…」
「やったー!」
 そのまま謎の人物とギル=ガラドはしばらく跳ね回った。跳ねている間に笑い出して、しまいには人物はギル=ガラドをひょいと持ち上げてぐるぐるぐるぐる回った。
「えっ全部? 全部通った? 」
「ぜんぶ! ばっちり!」
 嬉しそうにはしゃぐ声が夕闇の中できらきらしかった。エルロスは「えー…」と呟いた自分に気付いた。人物はギル=ガラドを下ろして、ぎゅっと抱きしめた。
「あ、でもしばらく俺つきっきりになると思う」
「それはまあ致し方ない」
 背が高いな、と思った。ギル=ガラドと並んで、抱きしめて、ああなるってことは……、エルロスはいらいらと窓枠をひっかいた。
 眼下で謎の人物は、ふっと声の質をかたく変えて言った。
「内密の話がある」
 ギル=ガラドがちょっと小首を傾げるのが見えた。
「どれくらい?」
 館に向かっている――と思う間もなくエルロスは身を翻して窓辺を離れた。
 階を駆け降りると、ちょうど二人は中に入ったところで、訪問者の顔がはっきりと見えた。黒髪の…
「あー、つまり、うち絡みの…」
「なんだ。良いよ、館の中なら。父君の話?」
「いや親父様じゃなくってね」
 ギル=ガラドと柔らかく話していた彼が言葉を止め、階上のエルロスを見た。表情のない顔の中で、水色の目がざっと迫るように思えた。
「だれ」
 エルロスはとがった声を出した。訪問者は音がしそうなほどゆっくりと瞬いて、不意に階下に目を向けた。つられて見て、エルロンドがそこに来ていたことにエルロスはやっと気がついた。
 ほぁ、だか、ふわ、だか気の抜けるような声が響いた。
「飾りがいがある…ッだっ」
 訪問者の呟きの意味がわかる前に、ギル=ガラドが彼の後ろ膝をおそらく蹴った。長身の訪問者はきれいに崩れ落ちて、渋面のギル=ガラドが双子を招いた。
「紹介していなかったな。エルロンド、エルロス、これはケレブリンボール。私の再従兄だ」
 彼、ケレブリンボールはもぞもぞと起き上がったが、床に座り込んだまま立ち上がろうとはしなかった。ぺかっと音のしそうなほどの満面の笑みでいる。ギル=ガラドは少し早口で続けた。
「フェアノール家のクルフィンの息子で……つまりマエズロスやマグロールの甥だ。以前拾いに行っていたドラゴンのあれこれは大体こいつの処にいくことになっている」
 ケレブリンボールがにこにこギル=ガラドを見上げているので、エルロスはエルロンドと寄り添って、やや不審の眼差しを向けた。それを見ると、ギル=ガラドは珍しく思い切り眉間に皺を刻むと、深い溜息をついた。
「……悪いやつではない。奇矯なふるまいをすることがあると思うが、そなたたちの顔がすこぶる好みだから、あまりうるさかったら目を合わせて笑ってやれ。黙るから」
「え、エレイニオンもだいすき」
「知ってる」
 ギル=ガラドは淡々と答えて、報告は部屋で聞こう、と言って歩いていった。ケレブリンボールはしなやかに立ち上がった。やはり長身で、立派な体格で、表情を消したらまるで彫刻のようだった。
 確かに、この雰囲気には覚えがある。確かに、養父たちの纏っていた……重みを感じた。
 と思った瞬間にケレブリンボールは、それら全ての印象をかき消すようにくしゃっと笑った。
「またね!」
 軽やかに駆けていくのを双子は呆然と見送った。
「……変わったひとだね」
 エルロンドがぼそりと言ったので、エルロスは一気に力が抜けて、ただ黙って頷いたのだった。