千尋の操

   Ⅰ

 黒い帳の夢をみた。

 柔らかな漆黒の帳が周りを包んでいる。なだれ落ちる流れはさらさらと揺れ、不意に、ざわりと翻る。
 手を伸ばして触れて、しがみついた。
 消えてしまいそうで、とても悲しかった。
 いかないで。
 おいていかないで。

 目を覚ます。黒い帳はどこにもない。床に晒されるように転がっている。
 床も壁も屋根も木の、家。平原にぽつんと立つ家はどこからも離れて、ひとりきりだ。
 木の冷たさは石よりもひとのよう。頬の辺りが生温く湿っていて、目の狭間を流れる液体は妙に冷たい。
 ぺたりと頬を床に押しあてたまま目線だけを上へあげた。途端に溢れる色彩。とりどりの糸がそこいら中から垂れ下がる。極彩色の帳。
 いいや求めるのは黒だ。どんな濃色も深色もかなわぬ、あたたかな漆黒だ。射干玉ほどきびしくなく、濡羽ほどつめたくなく。
 黒い帳の夢をみた。父上に抱かれる夢をみた。
 極彩に苛まれる瞳で夢を睨みつけた。
 この家を残して去った女の名をミーリエルという。ミーリエル・セリンデ。フィンウェ王に愛され、類い稀なる息子をひとり産み落としてマンドスの深きに去った女。母だ。
 その胎から這い出て彼女の息を奪ったのだ。
 類い稀なる息子、謳い文句通りならば、こんなところで打ち拉がれて横たわるはずもない。ティリオンは遠い。ノルドの都は、ノルドの王は、記憶にはすでにいない母のように遠い。
 いや母はいる。今、王宮に、子らを遊ばせる艶やかな金髪の女は父の妻だ。
 つまり彼女は母で、彼女の子らは弟妹ということになるのだった。
 奇妙なことだがそうであるのだった。
 母。それが、わからない。
 ここに住まいはじめてからだいぶ経つ。がらんと空ろに開いた居住部分と、息苦しいほどの色彩――生気に満ちた工房部分。どちらもさほど手を触れていない。
 否、触れられない。
 週のひとめぐりに一度、ヴァンヤの伝令使殿がやって来て、工房を動かしていく。言葉通り、動かしていく。何も生まない工房の動く様は満ち溢れる生気のように美しく不気味だ。床に横たわりそれを眺める。伝令使殿は何も言わない。彼は望むままに受け入れてくれる。
 父上を愛しているとは言えないのだと言うと、皆笑った。何を言う、と。けれどこの色渦巻く工房で思うのはいつもそうだった。父上を愛しているとは言えないのだ。
 『フィンウェを愛しているとは言えない』
 それともそれは記憶に残らない母の言葉か。
 黒い帳の夢をみる。
 誓いよりもよほど優しい、やくそくを――

  Ⅱ

 クルフィンウェさまから〈お手紙〉を預かって来ましたよ、と言うと、ノルドの王は長い黒髪をさらりと揺らして、いっそ稚いほどに目を丸くした。
 手紙と言うのだから、てっきり文書なのだと思った。愛しいはじめの息子が造り上げた〈文字〉は驚くほど早くに馴染んだ。ところが、手を差し出したフィンウェに向かって、長い付き合いの伝令使殿は、古風なお手紙です、と笑った。
「とびきりの伝言です。お伝えしても、よろしいでしょうか、フィンウェさま」

  Ⅲ

 黒い帳を思っていた。
 燃え立つ赤毛の女は、身にまとう色とは対照的にひどく静かだ。
 足に縋り膝に縋り、呻く。女は黙して髪を梳く。比べれば小さな手が、指がさりさりと髪を梳く。
 女の匂いはなめらかな石、女の声は灰の音。
 古風な手紙を繰り返す。
 (綰ば、解れ――)
 極彩の帳に囲まれながら守られている。女の声が、腕が、身体がきりりと殻を張る。――ふたりで、卵の中にいる。
 赤毛の女の名をネアダネルという。鍛冶師マハタンの一人娘。石を刻む手を持った、炎を制する目を持った、結婚を約束したひと。
 これまでならばとうに伴侶と呼ばれてしかるべき関係の、だが湖を知らずして生まれた者の恋は身体と心が分離している。だからなのか。恋をしたから生涯の伴侶なのか、生涯の伴侶に恋をするのか。わからない。
 女は〈返事〉を囁く。
 一日が終わる前に、伝令使殿は駆けて来て、古風な手紙に似合った古風な返事を告げてよこした。
 (人、みなは)
 工房には踏み込ませないように、塞ぐように戸口に立って聞いた返事だった。
 (今は、長しと、綰と――)
 そして、黙った。
 ふたり横たわり、女の目は極彩の綾を見る。女の腕が頭を抱く。胸に顔を埋めて鼓動を聞く。あの言葉をぶつけてみたくなる。
 父上を愛しているとは言えないのだ。
 女はわらわなかった。あいたいのならあいにいかなくては、と、灰の声音で言った。

  Ⅳ

 クルフィンウェさまに〈お手紙〉をお届けしましたよ、と言うと、ノルドの王は長い黒髪をさぁっと片手で掻きあげて、どう?と笑った。
 古風な手紙には古風な返事を。フィンウェは鏡の前で髪を掴んで考えた。
 こどもとの約束をこどもじみた情熱で守るのは、それが大事でたまらないからだ。あの子は忘れてしまっただろうか? それとも不安に苛まれ、悲しみに蝕まれているのだろうか?
 フィンウェは約束を守っている。誓いよりもよほど優しい、やくそくを。けして忘れられないから。

  Ⅴ

 王宮の庭は馴染み深い場所。だが、今となっては見慣れぬものも増えた。
 ひとりとひとりで暮らした宮だった。
 さびしくはなかった。父上がいた。
 どこへでも行けた。父上がいた。
 ……父上がいる。今もこの場所に。
 誰にも見つからないようにするのは容易いことだった。銀の光の帳の下で、影のように歩む。幼い目には迷路のような庭も、年を経れば小さな庭になる。だが木々は変わらず姿を隠してくれる。
 途切れ途切れに立つガラシリオンを辿るように歩む。紛れるようだった若木は今やすらりと伸び、近づけばさやさやと歌った。
 風に揺れて梢は歌う。無論、銀の木には敵うべくもないが。
 白い宮を見上げて、立ち止まる。
 ………ああ、父上が、いる。

 宮にとりわけ近く立つ白の木が、堂々たる枝を、ざわり、翻す。

  Ⅵ

 フィンウェは毎日眠るわけではないのだが、一日に一度はまどろむ時間を取っていた。おおむね自身のせいではあるが、王の仕事は忙しい。〈午睡〉の時は急を争う用件がないかぎり、彼はひとりでいられる。
 長い黒髪を背に渦巻かせ、フィンウェは長椅子に横たわっている。みひらかれた眸は今はきびしく冴えた青を散らし、何も映そうとしない。夢の小道をさまよっていても、フィンウェの心は夢をみない。
 その眸の先で音もなく窓から風がすべりこむ。フィンウェはゆっくりと頭をもたげる。身を起こし、長椅子の反対側の端にくたりと座る。ふるりと震える睫毛が一度落ち、開いた時には眸は輝く青を帯びた灰色。
 銀の光の帳が影を押しやるその部屋で、風の入る窓を見つめて、フィンウェは静かに首をかしげる。遅れて引かれた髪が、長椅子の下に渦を巻く。
 ――さえずりが聞こえる。フィンウェは微笑む。窓辺に駆けるように軽やかに寄り、告げる――
「いつまでそこにいるの?」
 風が流れた。銀の光に髪が翻った。

 まどろむ時間の出来事だけれどこれは夢ではない。白い枝にまばゆいほどの銀の光、そこから影が囁き返す。
「あいたかったんです」
 フィンウェも答える。
「私もだよ」

  Ⅶ

 窓枠に腰かける父上の髪を梳いて、枝がぎしと軋む音を聞く。半身以上を乗り出して、長くあふれる髪を抱く。
「フィンウェミンヤ。君との約束を、私が、破ったことがあった?」
 ふふ、とごく柔らかい声でフィンウェは笑った。
「特にこれは、君との初めての約束だった」
 ……そうだ。黒の帳の夢を今でもみる。銀の柳の下で追いかけてしがみついて掴まえたひとの髪は、その頃とても短くて、それが何故かひたすら悲しくて、切らないで、とせがんだのだった。
 長くなれば結う必要が出てくる。父上の髪を編ませてほしい、とねだったのはいつだったか。
 好きで好きでたまらなくて、最も稚い時分では指がうまく動かなくて、出来上がりはたいそう不恰好だったけれど――、父上は笑った。
「それじゃあ、私はもう、君以外には私の髪を結わせないよ」
 約束するよ。まっすぐ眸を合わせて、飾り気がないどころか奇妙に乱れた髪のまま、父上は、笑った…
「伸びましたね」
 髪に口づけると、父上は曖昧に微笑んだ。
「伸びるのは、とても遅い方なのだけど」
「ええ。長く」
 これを口に出すのは恐ろしかった。
「離れていた気がします」

  Ⅷ

 銀の光に包まれて、白い木が歌う。その葉と幹に紛れるように、影はますます深くなる。風が吹くたびに漆黒の髪がさらさらと乱される。縋るように影が抱いている。フィンウェは古風な手紙を呟く。
 父上を愛しているとは言えないと思うのです。
 子が苦しげに言う。フィンウェは古風な返事を呟く。ああ、けれど。
 あいたかったんです。子が言う。私もだよ。父が返す。子は黙る。やがて父が言う。
「あの頃はまだぎこちない手が、こんなに器用になって…クルフィンウェ」
 子が髪を放す。父の手を押し抱く。
 指先に、甲に、手のひらに――手首に口づけて、子は、焦がれるように叫ぶ。
「あなたはやさしい…!」
 白い枝が揺れる、葉が揺れる。すい、と手を引き、父はゆっくりと耳に手を当てる。
 風が強くなった。漆黒の髪が舞い上がり、
「私の髪が千尋を超えても、君がどうにかしてくれるんだろう?」
 黒の帳がおりる。
「あなたの髪が千尋を超えたら、その髪を伝ってどこへでも参りましょう」
 父上を愛しているとは言えないのだ。子は頭を潰したくなる。
「高きも遠きも導くしるべとなりましょう」

 銀の光に金の光の混じる頃、王宮を出た。
 金に明けなす道を降りながら、耳に響く声を聴いた。
『フェアナーロ』
 ――おかしな操立てだと言うかもしれないね。
 ――でもこれは誓いではなくて、よほど優しい、
 ――大事なやくそくだから。
『私も、あいたい』

  Ⅸ

 執務の時間に王を訪れた者は皆、目を瞠った。解き流すか一つに軽くまとめるか、簡素にしか髪を飾らない王の、その髪が大輪の花の如く美しく編まれていたのだ。
 フィンウェは笑うばかりで答えなかったが、日の経って、解かれた髪にひっそりと混じる編み髪については、云った。
「やくそくだよ」

  Ⅹ

 たけばぬれたかねば長き君が髪わが見ざる間に掻き入れつらむか
 (会わない間にあなたはどれほど変わってしまったのでしょうか?あいたいのです)

 人みなは今は長しとたけと言えど君が見し髪乱れたりとも
 (私を変えるのは君だけなのに、会わない今にどうして変わってしまうと思う?)