眺望

 彼女は身を隠すことに長けていた。危険を察知すること、予測すること、見張ることに長けていた。流れを読むことに長けていた。狩りは得意だったが戦場にいるべきではなかった。少なくとも、退却していく味方に逆らって、押し寄せる敵の方へゆくべきではなかった。
 だが彼女は駆けていった。最も近しい2人の味方は彼女を守ってくれた。彼女にはその意識はなかった――彼女は自分のことなど考えていなかった。ただ彼女の息子の父親であるひと、ノルドールの上級王、勇敢な、そして無謀な、そして愛しい男のもとへゆくことしか考えていなかった。正確には、彼の身体のある場所へ。

 星々を仰ぐ湖で彼女は生まれた。薄明の紛らわしい中つ国で、まだ星と火以外のいかなる光も知らなかった頃、黒の乗り手と獣に脅かされる日々に生まれた。――危険だと、感覚が知らせないはずはなかった。目覚めの湖で生まれた者は皆知っていた。安穏としてはいられないことを、そして生き残るためにはどうすればいいのかを。
 誰が見てもここは戦場。まもなく夜が来る。闇が降りてくる。ここにいるべきではなかった。向かうべきではなかった。
 だというのに何故この足はあそこへ向かう。
 彼女は喘いだ。折れて転がった旗を掴んで布地だけを引き剥がした。布が要る。包むものが要る。ああ、血にまみれたものではなく。

 ああ、どんな悪意がこのように惨いことを。

 目的の場所に着いた時、空には太陽も月も見えなかった。空よりも大地は暗い。星々の見えるようになるまでは、まだしばし時がいる。夜の深きよりも大地の暗くなる時間。
 闇の生き物たちは平原の彼方か、山脈の深くに追撃に去った。
 彼女はかつて闇の深くを流離った。地下の凝る闇を見た。守られた美しい森の闇を見た。星の隠れた闇を見た。暗闇は彼女を阻まなかった。

 暗い大地で、彼女はオークどもの屍骸をひたすら投げた。聖域のようにすら感じられるそこから追い出した。さらに、彼の近衛、忠実なる哀れな兵士たちの遺骸をひとところに並べた。捜すまでもなく彼らの遺骸は拾えた。そして、ようやく、彼女はそこを見た。
 暗闇は彼女の視線を阻みはしなかったが、色彩というものは見えなかった。あるいは光があっても見えなかったのかもしれない。
 彼女は濡れた布を掴んだ。これは旗だ。重く濡れて、きっと輝かしい青と銀色は黒ずんだ赤に染まっている。

 その旗の陰に、彼女は細長い小さな肉片を拾う。指。彼女はそう囁く。ああ、これは手の一部。彼女はそう言い、拾う。

 この大地は血を湛えている。彼の血の上に立っている。そして彼の遺骸を拾う。
 割れた兜、千切れた外衣、砕けた鎧、つまりは千々に引き裂かれ、叩き潰され、原型をとどめぬ肉塊と成り果てた彼女の愛しい男。

 足を拾う。腕を拾う。まだそれは形がある。
 液体にまみれた何かを掴む。冷たい金属の欠片と、堅い骨に触れて、彼女はそれが臓腑だと気づく。
 ではこちらもそうか。彼女は大地にはりついた布地の周辺をさぐる。彼女自身も血にまみれる。
 彼女は不思議に思う。この大地は血を吸って固まったのではなかったか。何故にこのように水の中に立っている。
 泥の底を足が感じる。それともこれも彼の身体なのだろうか。
 湿った塊を彼女は掴む。ああ心臓だ。彼女は呟く。
 濡れた臓腑を彼女は拾う。布のようにまとわりつく皮膚を拾う。そして突き出した骨を拾う。砕かれ貼りつく鎧を拾う。
 これは首。これは肩。片方の耳。
 顎と下の唇を見つけて彼女は拾う。下唇を指でなぞり、彼女はうっとりと目を細める。
 鼻と損なわれた眼、そして頭蓋の一部を拾う。脳漿をかき集める。地に膝をつき血泥にまみれて彼女は拾う。

 とうとう彼女は兜を拾う。割れた兜の片割れ。立ち上がって中を見つめる。半分以下の顔と髪、それが欠けた兜の中にある。
 ぼとりと眼が落下する。彼女は足元に身をかがめ、それを、見つける。

 そう、それは大事な袋。一房の紅い髪。彼女は悟り、ついで微笑む。では盟主殿は、彼の髪を抱いているだろう。そして、おそらくは、最愛の従弟の死を伝えに、彼女の息子のところへ行くだろう。
 彼女は兜に手を差し入れ、彼の髪を切る。紅い髪と黒い髪をきつく編んで胸に抱く。ではこれは、これが我が守り。

 最後に彼女は眼を拾う。霧のかかった紫の瞳。それを見つめて月の光の存在に気づく。いとおしげに瞳を見つめて、彼女は囁く。

 さあ、お前をみつけたぞ。

 乾いた王旗に亡骸を包み、彼女は月光の下を歩き出す。

 奪われた山頂と砦、凍みとおる冷たい風を感じて、彼女は立っていた。
 彼女がかつて息子を生みおとした洞窟を出て、彼女は泉へ向かった。

 冷たい泉に飛び込んで、未だ汚されない泉に赤い筋の流れるのを見て、彼女は決意する。いまや流浪の身となったあのひとに会いに行こうと。行かなければ。彼女は思った。泉の外に顔を出し、喉に凍てつく空気を吸った。そう、同盟の盟主、彼の従兄に。

 どんな悪意がこれを為した?
 どんな呪いが彼らを――自分ではなく――抱くのか。
 そしてどんな幸福を手にいれるのか。
 彼女は空を仰ぐ。みえるはずのない未来を眺め望む。

 さあ、お前をみつけたぞ。

 彼女は言った。冷たい空気に言葉は凝った。これが彼の墓標である。