「——殿」
呟いた、と思う間もなかった。
すれ違った、眩いような金髪の少年は振り返り、こちらを見た。
その目、毒もつ花の鮮やかな青紫。
あいたかったのはその色だった。
「ブレゴール」
少年は呼んだ。それで彼は——ブレゴールは、遠い夢から覚めるようにはっとした。
「……殿?」
演劇でもなければようよう言わない呼称を再度口にすると、少年は短い金の髪をくしゃりと掻き回した。
「現代にそれはないな。ぼくとおまえの外見的にも」
ブレゴールは曖昧に微笑んだ。少年は彼にとってはどういった見目でもやんごとなき御方であり、呼称もそれに従ったものになるのが当たり前だった。
「——アングロド」
「うん」
「人間……ですか」
「他の何に見える?」
見目に相応しく少女のようにくすりと笑うと、アングロドはブレゴールの目を覗いて告げた。
「人間だよ。おまえと同じ。今は。14歳だ」
「……、」
「説明するよ。時間平気か」
言いたいことが引っかかったブレゴールの視界で、アングロドはふわりと身を翻した。
自分のものではない記憶があると分かった時、人はどうするものだろうか。
『ブレゴール』はその記憶を「前世の経験」として受け入れた。
そうせざるを得ないほど、その記憶が自然だったからだ。
物心つくかどうかという頃から、彼の中にその記憶はあった。経験と言い換えるしかないほどに、自分はこれを知っている(やれる)という感覚があるのだ。皆そういうものだと思っていた。
長じるにつれ誰しもがそうではないと知り、その記憶を誰に話すこともなく、彼は今の人生を生きてきた。
今日までは。
記憶の中の堂々たるエルフの貴公子は、あの時の少年時代もこうだったのだろうか?
固いベンチに並んで腰かけて、話の合間にとんとんと踵を鳴らしている。踵、爪先、また踵。ふとした時に跳んで、飛んで——いってしまいそうな軽やかなリズム。
でもおまえが覚えているとは思わなかった。蘇りとも生まれ変わりとも言い難い彼の事情をひとしきり説明して、アングロドは懐かしそうな声で言った。
「ええ。わたしだけです」
「……ずいぶん、確信的に言うんだな」
「会いましたから」
はっきりしたのは今し方だが、これまでもあの時—前世—の家族や近しい人に会うことはあった。今も親族であったり、友人であったりとその関係性は様々で——世代もばらばらだった。年の離れた従弟のやんちゃ坊主があの時の祖父なことをついさっき確信して眩暈がした。
そう告げるとアングロドは重たい色にその花の目を曇らせて、おずおずと訊いた。
「おまえにきょうだいは?」
ブレゴールは一度目を閉じる。彼と話すなら、あの時も今も、これを避けては通れない。
「わたしは、一人っ子です」
「……、そうか」
そう言ってからアングロドは、小さな溜め息をついた。
「簡単に考えてた」
「アイグノールの殿は、お元気ですか」
「元気だよ。記憶はないけど。岸辺にいたがるのを、私が無理やり連れ出したから」
まっさらに生き直しているうちのひとりということだ。
ああ、それなら、同じだ。
「おまえに私が会えたから、あいつもそうなんじゃないかと思ったんだ」
「会わせたいのですか」
「おまえはそうじゃなさそうだな」
「もしアンドレスがいて、記憶があったなら、それは別の不幸を生むとは思いませんか」
ブレゴールは言葉を噛むように続けた。
「出会ったとして、また恋をするとは限らない」
「また恋をしないとも限らない」
「それはあなたの願望でしょう、殿」
アングロドがぴくりと肩を揺らした。
窺い見た横顔の中で、前を見据えた目線がうなだれるように落ちた。そうだ。ああ、そうだ。彼はいっそ悲痛な声で言った。
「こんな時間があるなら、どうしてあのふたりは結ばれないんだ?」
水面に石を落としたように、言葉は胸に波紋を描く。
ブレゴールはつとめて柔らかな声で言った。
「……関係性が同じまま生まれ変わった者はいないように思います」
「そう、なんだろうな」
落胆の響きを遮るように続けた。
「12年前、結婚しました。娘がひとり。“わたしには娘がひとりしかいません”」
アングロドが弾かれたように顔を上げる。ブレゴールは困ったように微笑んだ。そうです。重ねて告げる。
「記憶はありませんが」
『ブレゴール』の妹アンドレスに対する思いは八割方父性愛で出来ていた。だからこんなことになったのだろうか。自分に記憶があるのは何故かわからないが。
人の子はきっと生まれ変わり幾度もの生を重ねていて——その魂をいとおしんだ者がこうして、同じ世界で触れあえる。
あの時同じように兄だったアングロドは、ブレゴールとは違う種類の困惑の中にいた。
少年がようよう絞り出したのは「でも、おまえは、会わせるつもり、ないんだろう…?」という問いかけだった。
ブレゴールは肩をすくめた。
「今度こそ過保護でうるさい保護者になる権利は充分ですけど……あの時も、今も。彼女が本気で決めたことを遮ることはありませんよ」
「じゃあ」
「まだ早い」
きっぱりといったブレゴールに、アングロドは見目に合った膨れっ面をしてみせた。
「わかるでしょう、殿。どうやって会わせるんです。お互い何も知らないのに」
「それはその、まあ、なんとか…」
「駄目ですよ。理由がない。そもそもわたしとあなたがどういう関係ですか。こんなおっさんと——極上の美少年が?」
アングロドは曰わく言い難い奇妙な表情で固まった。鮮やかな青紫の瞳が、虚空をしばしさまよって、それからブレゴールを睨んだ。
「そういうこと言うの、」
「友人、なら嬉しいですが」
ブレゴールはごくささやかにアングロドの頭を撫でた。前髪をほんの一房、指に絡めて、離した。
「主張しても、今のままではとても」
言って、ブレゴールは名刺を取り出した。裏面に書きつけ——最後にもう一言添える。アナウンスが聞こえる。行かなくては。
「メール」
「え」
「ください。殿。あなたからブレゴールに」
屈むようにして見つめると、アングロドは名刺に視線を落とし、それからはっとしてブレゴールを見上げた。
視界がぶれたような気がした。ブレゴールは跪く。アングロドの手をとって、自分の額に押し戴く。
「会えて嬉しいです。アングロド。あなたに会えて、とても。——泣きたいくらいだ」
その手に掠めるような口づけを贈る。ひとつ頷き、ブレゴールは立ち上がった。
アングロドが言葉を探しあぐねている。ブレゴールは人の悪そうに笑ってみせる。
「まずはメル友から」
「あ、あ」
「そしてまた、お会いしましょう、殿。みんなで」
力強く言って、踵を返す。その背中に名を呼ぶ声がかかる。振り返る。
「———、また!」
飛び上がるように立ち上がったアングロドは、頬を紅潮させてそう言った。ブレゴールは破顔した。いとも優雅に一礼。
そして今度は駆け出した。
世界が驚くほど輝いてみえた。
———メールは3日後。一文だけ。
『この前の再会が動画サイトに上がってるんだがどうしてくれる?』
ブレゴールはもちろん動画を探した。自分の去った後、真っ赤になってベンチに崩れ落ちたアングロドを見て微笑み、動画の再生回数を見て吹き出した。
それから唸りながら返信を考えた。笑みの抑えきれない父を見て、大きな本を抱えたひとり娘が、不思議そうに首を傾げていた。