白い恋人、またはアングバンド道行

 1

 フォルメノス、北の砦の館の前で、メルコールは困惑していた。
「ノルド王、その、………どうしたのだ」
 シルマリルを強奪しに来たにしては気弱な台詞である。
 理由は、メルコールにただひとり対峙するように立ったフィンウェの姿にあった。
「どうしたもこうしたも、見ての通り死に損ねましたが、何か」
 フィンウェの周囲の石畳は真っ赤だった。血飛沫とさらに流れ出た血が、そこここの一帯を真っ赤に染め上げている。中心にいるフィンウェはどうかと言うと、額にまるで赤い花を咲かせたように傷と血とを流していた。
 しかし見る間に傷は塞がり、ただ血の流れた痕の残る凄惨な顔で、フィンウェは自嘲するように微笑んだ。
「やっぱり飛び降りたくらいでは駄目でしたね」
「……飛び降りたのか…」
「頭かち割りたくなったので」
「……………かち割れたようではないか」
「かち割れましたけど、駄目でしたね」
 メルコールは落ち着かなく目を彷徨わせた。前から妙だとは思っていたが、今はっきりと知れた。ノルドの王は、異常なほどの『自らに対する癒しの力』を持っている。
 はあ、と深い溜息をついて、フィンウェはメルコールを見た。メルコールも目を合わせた。と、フィンウェは不意にくすりと笑った。
「紫陽の君、――駆け落ちしませんか」
「は」
「シルマリル。欲しいんでしょう?」
 あげますよ。気怠げにまた溜息をつくと、フィンウェは血を拭うように髪をかきあげた。
「私もいい加減息子との爛れた関係に嫌気がさしてますので。家出したいんです」

  *   *

「ちょっとやり過ぎじゃないですか?」
 見事に門から宝物庫まで一直線に瓦礫の山となったフォルメノスを見降ろして、フィンウェが言った。今は彼はメルコールの腕の中で、シルマリルの仕舞われた小函を抱っこしている。
「お前の死んだふりに信憑性が出るだろう」
「ナーモさまにバレバレですけどねえ…」
 ちょい、と函の蓋を開けて、眩しい、とフィンウェはぼやいた。メルコールは眉間に皺を寄せた。函を掴んでみた手がすごく痛かったのだ。
「なんだってシルマリルが燃える」
「マンウェさまとかが寄ってたかって聖めてましたからねえ。悪心あると燃えるみたいですよ」
「………じゃどうしてフェアノールが平気なのだ」
「………どうしてでしょうねー。造り手特権ですかね」
 父親に恋した挙句、関係まで持つのを悪心がないとは言い難い。
「というか、何故お前まで平気なのだ」
「どうしてでしょうねー。私も燃えてもいいと思うんですけどね」
 民を見捨てて死んだふりまでして今現在逃亡中の王に、悪心がないとも言い難い。
「ずるい」
「否定できません」
 ウンゴリアントは、背中でいちゃつく二人に少しイラっとした。

 2

「というか、右手には我は今お前しか持っておらぬがー!ノルド王!」
「私食べても多分治まらないと思いますよ、カノジョ」
「だろうな!食中り起こすな!」
「わあひどい」
 妙に緊張感に欠けた会話をしながら、その実メルコールはとても焦っていた。ウンゴリアントはすっかり混沌とした闇そのもので――メルコールですらちょっと怖い、とビビるような代物になっていた。実際怖かった。
 なので余計にメルコールには、右手に抱えたノルドの王が怖がるどころかしれっと答えてくるのが気に障った。
「お前、怖くないのか!」
 岩陰を使って雌蜘蛛の太い糸を避けながら問うと、フィンウェは軽く首をかしげた。
「特には?」
「我は怖い!女怖い!」
 半泣きで叫び、糸を避けたメルコールの腕の中で、フィンウェは不服そうにえー、と言い、
「でもニエンナさまは怖くないでしょ?」
「……ッ!?」
 べと。
 ついた。糸がついた。
「うわああああ」
「あれ、捕まりました?すいません」
「すいませんで済むかぁ!」
 べとべとべと。
 揉めている間にも糸がどんどん絡み、気が付いたら蜘蛛の巣の真ん中で、ウンゴリアントが目の前で笑った。
「蜘蛛の笑顔って初めて見ました」
「そんな感想聞いておらぬわ…」
 ウンゴリアントの毒針がぎりぎりと掲げられる。メルコールはごくりと息を呑んだ。
「紫陽の君」
 と、フィンウェがメルコールの耳元に口を寄せ、―――ふ、と吹いた。
「キャアアアアアアアアッ!!?」
 悲鳴にウンゴリアントの毒針はびくりと震えて止まった。どころか、雌蜘蛛はぼとりと巣から落ちた。
 しかし、至近距離で聞いたはずのフィンウェは、大した衝撃もなしにぱちりと大きく眸を瞬いた。
「ずいぶん可愛らしい悲鳴ですねえ」
「な、なっ…慮外なっ、」
 メルコールは涙目でノルドの王を睨む。
 地が震え、岩が裂ける音の中、轟々と燃える炎と、空気を切り裂くしなう鞭の響きが聞こえてきていた。 

 3

 別に我が監禁しているわけではない。あいつが勝手に引き籠っているだけだ、というのがメルコールの主張だ。
 ………誰に何を咎められるわけもないのだが、うっかりシルマリルと一緒に連れて来てしまったノルドの王が、巣のような居場所をつくってそこから出てこないとなると、なんとなく、どこかに向かって言い訳をしたくなった。
「おい。ノルド王」
 そのヒキコモリノルドの顔を見てやろうと思って、何やらフィンウェがとぐろをまいているらしい所に踏み込み、メルコールは来るんじゃなかったと後悔した。
 足の踏み場もないほどに散らかった金屑と屑石との雑多な塊の中に、机らしきものや椅子らしきものが見てとれた。そして奥の方の長椅子らしきものに、丸まった猫のようにノルドの王はいた。
「なんですかー」
 間延びした声で答えると、ううん、と伸びをする。
「何なのだそこまでだらけおって…」
「楽なんですよ」
 寝転がったままメルコールを見上げて、フィンウェは目を細める。
「紫陽の君、あなた私に何も求めませんから」
 メルコールはちょっと黙った。確かに。
 ノルドールをヴァラールに離反させるなら、何もじわじわ虚言を撒かずとも、このノルドの王ひとりを唆せば済むことだった。
 フィンウェが動けばノルドールはすべて動く。もしかしたらヴァンヤールも。そうして、エルダールはヴァリノールを去って…。だがそれは、何か違う気がしたのだ。
「お前は秩序だからな」
「あなたは混沌ですね」
 むく、と半身を起こしてフィンウェは小さく欠伸をした。
「疲れました…」
「自分で背負いこんだのだろう」
「そういう性質らしいです私って」
 フィンウェは眼をこすると、不意にぱっちり開いた目でメルコールを見た。じいっと見た。
「……なんだ」
 主張の激しい沈黙が嫌になって尋ねると、フィンウェは心底呆れたような声音で言った。
「その仮面、全然似合ってませんよ。美人がもったいない」
 メルコールは無言でフィンウェの寝転がっている長椅子らしきものを蹴った。フィンウェがけらけら笑った。

 4

 唸るような不機嫌な声をメルコールは出した。
「なぜお前がここにいる」
 振り返ったノルドの王は、悪びれなく首をかしげた。
「誰も止めませんでしたから?」
「私室だぞ」
「いやもう私、見えなくなったのかなと思うくらいの咎めなさで、あちこち歩いてますが」
「……なに?」
 メルコールは眉をひそめ、とくとフィンウェを見つめた。
「消えてはおらぬが」
「ですよねえ?」
 フィンウェは困ったように逆側に首をかしげ直した。

  *   *

 配下のマイアの中でも筆頭のサウロンに「あれをどう思う」と訊いてみた。至極真面目な顔でサウロンは答えた。
「我が君の宝物ですか」
「……あ?」
 平たく言えばシルマリルと同一視している、ということらしい。造り手フェアノールの執着を考えれば、あながち間違いではない。実際、シルマリルを害されずに持てるのは今のところアングバンド内ではフィンウェしかいない。だからあの大宝玉は、未だもってフィンウェが所持している。
 もっとも、直接の原因は初めてアングバンドに入った日に、メルコールがフィンウェを抱っこしたままだったことなのだが、本人達にはさしたる意味があってのことではなかったので、記憶に残っていなかった。ついでに言えば勇気を振り絞った配下が「あの、それは…?」と聞いてきっぱり「シルマリルだ」と答えたのも記憶にはあるまい。そりゃ確かにメルコールに抱っこされたフィンウェはシルマリルを抱っこしていたのだが。

 そんな会話をしたもので、別の日にノルドの王を見かけた時、メルコールは後をこっそりつけてみた。もちろんそのままの姿で、ではない。蝶になって彼の黒髪に留まってみたのだ。フィンウェは不思議には思ったようだが、特には追い払わなかった。であるので、メルコールはごく簡単に目的を達成することが出来た。
 見えなくなった、とはかなり主観の入った判断であるようだった。アングバンドに棲むものたちは、勿論きちんとフィンウェを認識している。ただ、まるでメルコール本人にするように礼を尽くし歩みを妨げなかっただけだ。
 ふと、どんな表情でこの鉄の要塞を見ているのかが気になった。メルコールはふわりとフィンウェの髪を離れ、ひらひらと追い越しながら、その顔を覗いてみた。
 ――虚ろがそこにはあった。フィンウェは、まるで石で出来たように凍った姿で、何の感情も浮かべない眸で歩んでいた。
 その眸があの大宝玉と同じ色をしていると、メルコールは初めて気づいた。何故だか苛立った。
「ノルド王」
 普段の姿に戻りつつ呼ぶと、フィンウェはふわりと視線を向けて、むう、と口をとがらせた。
「だからその仮面、似合いませんって」
「お前は最近そればっかりだな…!」
「ヤです、そんな紫陽の君」
「お前に気に入って貰わずとも結構だ!」
 メルコールに見せる顔は、少しも石のようではなかった。安堵したのが態度に滲み出ているのを配下に察知されているとは、メルコールは気づかない。

 5

 メルコールが目覚めると、今日も腕の中には丸まるようにノルドの王が眠っていた。初めの日はみしっと固まったものだが、こうも連日続くと、特に気に留めることではないような気がしてくる。何せ全く眠りを妨げずに気がつけばもぐりこんでいるもので、止める手立てがない。
 寝台を降りて仮面を手に取ると、フィンウェが身じろいだ。
「ああ、美人がもったいない」
「…開口一番それか」
「言われたくなかったら、私にちゃんと顔を見せてください」
「この顔か」
 ふと悪戯心がわいて、メルコールはぐっと顔をフィンウェに近づけて見せた。
「マンウェと同じだな」
 ノルドの王は、ふ、と笑うと、輝く青灰色の眸をみはり、メルコールに言い聞かせるように言った。
「そう、思いますか。紫陽の君」
 どきりとした。白い手がするりと伸びて、あっと思う間もなく、耳の横の髪をさらりと絡めた。
「好きですよ」
 さらに近づいた燦然と冴えた眸に吸い込まれるように、メルコールはゆっくりと瞬いた。
「紅玉も良いですけれど、青玉の紫陽の彩が、とても、あなたに似合って」
「……お前の手は冷たいな」
 身を引きながらメルコールは言った。白い冷えた手は名残惜しげに朱金の髪を絡めて離れた。
「温めてくれる方がいないもので」
「誰にも応じなかったくせに、ノルド王」
 フィンウェは小さく笑って寝具にぱたりと埋もれた。
「王は、ね」
 メルコールはもう一度ゆっくりと瞬く。とたんにその瞳は淡い紅を帯びた青玉に変わる。
「満足だろう」
 踵を返すと、仮面には不満ですよと存外に弾んだ声が追いかけてきた。

 6

 雄弁な視線というのは今までにも感じたことはあるが、このノルドの王のはとりわけ雄弁である。
 じい…っとあの眸が見ている。その視線を、メルコールはそれはもう物凄く意識していた。そろそろ日常になりつつあるフィンウェの訪問だが、メルコールはいっかな慣れない。
 炉場にはフィンウェは滅多に寄りつかなかった。勢い、メルコールのいる場所はこの炉場が増えていたのだが、今日はノルドの王は何かを大いに決意してしまったらしく、何の躊躇いもなく炉場に踏み込んで来たのだ。
 ノルドの王はふっと笑うように息を吐くと、少し苛立ったように口を開いた。
「全部隠しちゃえば良いじゃないですか。半端で余計にエロいんですよあなた」
「いきなり来て何をって言うかお前の方が夥しく色気垂れ流しのくせして何を言うかー!?」
 そしてメルコールがフィンウェの言に思い切り言い返してしまうのも、そろそろ日常になりつつあった。
「色気については否定はしませんけど」
「少しはしろ」
「いえだって再婚できたのとか諸々、他に説明付きませんし、ね? それはともかくあなた、エロいんですよ紫陽の君」
 フィンウェはすうっと距離を詰めた。
「その唇が」
 メルコールは黒鉄と羽根を手から取り落とした。
「その指も」
 囁くと、フィンウェはメルコールの指をついと撫で、黒鉄と羽根を拾い上げると、炉の火を見て微笑んだ。
「で、今日は私はすごく、すご~く、ごきげんなんです」
「………その、よう、だな」
 メルコールは背筋が震えるのを感じた。フィンウェは白い両手に抱えた黒鉄と羽根に、ゆっくりと息を吹きかけた。まるで火を熾すように、それらがじわりと輝いた。
「なに、を」
 ちらり、と視線を流し、フィンウェは高揚した笑みを浮かべた。
「あなたに仮面をつくってあげます」
 そしてフィンウェは、歌いだした。
「お前、」
 メルコールは震えた自分の身体を抱いた。信じられなかった。だが歌は止まらず、黒鉄と羽根は輝きと共にかたちを変えた。鍛冶のように、生え育つ木のように、流れる川のように、……見えない風のように。
「ほら。……出来た」
「ノルド王」
「付けて、下さるでしょう?」
 メルコールはまるで怯えたように頭を振った。
「ばけものめ」
「あなたに言われたくありません」
 フィンウェはメルコールの仮面を外すと、じっと淡い紫陽の瞳を見た。永遠の色をした眸がふわりと緩み、冷たい唇がふれるだけの口づけをした。

 7

 ノルドの王がアングバンド内をふらふらしているのは最早日常だったが、サウロンが見かけた時、彼は随分と落ち着きなくきょろきょろ周囲を見回していた。道に迷った猫のようだと思った。
 つい、と突然彼が振り返った。サウロンは何故かどぎまぎして立ち竦んだ。ノルドの王は青を散らした灰色の眸を、透きとおらせてぽつりと言った。
「歌をお忘れなく」
 ぎこちない動きでサウロンは、去って行く姿を見送った。音のしない歩みでノルドの王は消えた。
 誰にも似ていない、とサウロンは思う。あれは、あの存在は誰にも似ていない。
 だが、聞こえてしまった言葉が耳から消えそうにない。
「私を身代わり扱いするなんて、紫陽の君だけですよ」
 主の声は聞こえなかった。フィンウェが上機嫌な猫のように喉を鳴らして笑った。
「好きですよ。そういうところが特に」
 主が彼を、誰の身代わりにしているかは永遠に謎のような気がした。
 知っても、納得なぞしないだろうが。

 8

 野を満たすのは知らないどよめきと声の谺だった。戦いが、打ち寄せるように訪れていた。遠い西から。
 胸騒ぐ重苦しさを感じて、メルコールは星の下にある中つ国を見ていた。
「お別れです」
 耳を打った声にぞくりと身を震わせ、まるでおどおどとメルコールは振り返った。白い亡霊のような姿をしたノルド王が、すぐそばに、決然と立っていた。
 どの星よりも輝く色をした眸が、やはりきっぱりとメルコールを見上げた。
「紫陽の君、もう、」
 ―――わかっているんでしょう?
 フィンウェは常のようには笑ってはいなかった。酷く静かにそう告げた。
「わかるものか」
 言い募るメルコールの前で、星空を背にフィンウェの姿は変わっていく。
 透けるような肌はさらに蒼白く、血の気の失せた貌の中でただ眸だけが苛烈なほど美しく輝いていて、そして、
「我から、去るのか」
 メルコールはまるで溺れているような声だと、どこか遠くで思った。
「では我はお前の子を殺す。お前の孫を殺す。お前が愛しむあの民を、お前のように殺してやる」
「ほら、わかってる」
 額に赤い花の傷を咲かせて、フィンウェは薄りと笑みを閃かす。
「時がありません。紫陽の君。逃げるのはおしまい。戦いが、――始まってしまいます」
 メルコールは1歩踏み出した。どうしてここはこんなに風の吹きすさぶ開けた所なのだろう?
 1歩下がったのはフィンウェも同じだった。広げた手。風をはらみ、翻る白い、――紅の散る、その衣。
「さようなら」
 メルコール。
 クウェンディの言葉で紡がれたはずのその名は、確かに旋律を紡いだ。創世の時と同じように……エルのその声と同じように。
 ―――――
「フィンウェ!」
 知恵の王は、艶やかに微笑んだ。
「今度は手遅れになる前に呼ばなくては、ね。紫陽の君」
 そうしてフィンウェの姿はまるで風に踊るように落ちて、――消えた。
 メルコールの耳にひとつの言葉を残して。

 月が現れたのはそれからそう遠い時間のことではなく。メルコールは睨むようにひとつめの光を見た。
 (ふたつの光を見たら、思い出して下さいね)
 まるで、つれない恋人の微笑みのような輝きをしていると思った。

 9

 重い重い、ひしがれてしまいそうな重みは、黒鉄の王冠の重み。その重みは三つ据えられた大宝玉シルマリルから来ている。
 メルコールは右掌に残った深い火傷の痕を眺めやる。そして右手の指先に小さく残った白い火傷を。
『飾りにして何が楽しいんです?』
 口をとがらせていた姿を思い出す。
『私、あの子が身を飾るのもよく分からなかった。見ればそれでいいのに』
 ぶつぶつと言っていた。だがメルコールがいいから見せろ、と言うと白い両手に三つの宝玉を抱えて、淡く微笑んだ。……

「熱ッ」
 じゅ、とくすぶった煙が上がる。
 メルコールは指先に走った火傷を押さえて、変わらずきらきらと輝く大宝玉を睨んだ。
「最近タチ悪くなったのではないか、こいつ!」
 卓の向かいできょとんとしていたフィンウェは、つん、と指先で宝玉のひとつをつついた。
「あなたが邪悪になったとか」
「充分邪悪なくせに何を言うかノルド王」
「そうなんですけどねえ」
 フィンウェは宝玉と似たようにきらきら輝く眸で上目遣いすると、席を立ってメルコールに寄った。
「…なんだ」
 隣に腰掛けると、フィンウェはおもむろにシルマリルの一つを自分の掌に乗せ、その手ごとメルコールに掴ませた。
「おい?」
「灼けないでしょう?」
 ノルドの王は静かに言った。
「見るならいつでも、手くらいあげますよ。紫陽の君」

 あの手の冷たさを今も覚えている。
 大宝玉は歓喜するようにフィンウェの手の中で輝いていて、その手の白さが宝玉の光でよりいっそうの妖しい翳を帯びたのを覚えている。
 終いには掲げさせるのも面倒になって、細い身体を膝の上に抱き込んで、冷たい手ごと宝玉を愛でたものだった。
 ただ、どういう飾りにしようかと呟くと、いつでもフィンウェは機嫌を悪くして、拗ねたものだった。
『どうして見るだけじゃいけないんです?』
「お前がいないから、こうなったではないか…」
 見るよりも所有し、誇示することを選んだのは、メルコールに宝玉を見せてくれる手がなくなったからだ。
 ひしがれそうな重みに耐えている。だがメルコールはもう宝玉を見ることはない。おそらくこの頭上で、ひどく慕わしい色と輝きをしているだろうけれど。