西方

 レゴラスのいなかったその丸一日、わたしは灰色港の主、船造りのエルフ、キアダンと過ごすことになった。
 キアダンが訪れた目的を、わたしは聞かなかった。
 彼はわたしに燦光洞の案内をせがみ、わたしはふたつ返事で了承した。そんなことを言い出すなんて、この御仁も変わった方だなとぼんやり考えた。

 わたしが主たるこの燦光洞に、波の音は聞こえるべくもない。
 何度かレゴラスに誘われて行った海辺はわたしにとっては不安を覚えることの方が多かったが、それでも移ろう光に定まらずかたちを変える波の模様は、うつくしいものであるように思った。潮の薫り、打ち寄せる音楽。――エルフの歌。
 果てを信じられないその海を、キアダンは思い起こさせる。
 彼はたいそう年経たエルフだと言う。それを示すかのように彼の姿は人の子の老年の者のように、いかにも年月を感じさせるものだった。長い顎鬚がそう見せるのかもしれない。生来のものであるのだろうが、彼の長い銀の髪は、あの黄金の森の殿のものとは違った色合いを帯びていて、波頭の白に近づこうとするようなひっそりとした輝きを持っていた。
 旅をするのは久しぶりだと笑ったが、エルフにとっての「久しぶり」がどんなものだか、……わたしには途方もない時間であるように思えた。

 燦光洞のある場所で、キアダンは愛おしげな溜息をついた。懐かしい、と呟くそこは、波も立たない静まり返った水面に、月光を受けた石の艶めく揺らぎが映るのだった。
 彼はわたしにエルフの目覚めの湖のことを語った。遠い過去から聞こえるような声で。
「遠い昔、まだ空に月も太陽もなく、星ばかりが輝いていた頃。帰れない湖の岸辺で。私は見たこともない海に焦がれていた。湖を見ながら、心の裡にほかのものを思い描いていた」
 彼の声は、波の響きによく似ているように思った。
「光への憧れで、我々は旅立った。見たこともないその“光”を信じて。西へ。――西の彼方へ」
 信じる、という言葉がわたしを頷かせる。キアダンは、独白めいた声で続けた。
「ゆきたいのにゆけないのはとても辛い。…そんな思いをさせたくない」
 そう言った彼は、少しも年経たエルフのようには見えなかった。そこにいたのは若く、理想を抱き、夢と憧れだけでどこまででも行ってしまえる青年だった。わたしはそれほどの決意を少し羨ましく思った。それを聞くと、キアダンは声をたてて笑った。
「なに、私の決意など、ギムリ殿の決意に比べたら何ほどのものでも!」
 そして、古い言葉で呟いた。叫び出したいような、大事に抱え込んでいるような、ないまぜになった感情のひとしずくを。
 船造りの匠は送り出すばかりで、彼自身を灰色の船に乗せることはしない。
 彼は、西を、知らない。
 わたしは不意にそれを悟った。
 キアダンは真っ直ぐの彼方を見るような碧い瞳を細めた。
「ドワーフ殿、つつがなく行かれよ。そう――きっと貴男はたどり着くだろう」

 レゴラスのいなかったその丸一日、わたしは灰色港の主、船造りのエルフ、キアダンと過ごした。
 キアダンはわたしたちの旅路を言祝いだ。願いであり、祈りであり、祝福であった。
 だからわたしは、今さら何だか不安な表情をしているレゴラスに、その言祝ぎを乗せて素直な気持ちを言ってやる。
 あんたを信じてるよ、さあいこう、と。